ブラッドリー『仮象と実在』 92
... (我々の言う絶対は物自体ではない。)
こうした絶対が物自体なのではないかという反論については、反論者が自分でなにを言っているのか理解しているのかどうか疑わざるを得ない。すべてを抱握する全体がその名に値するものであるかどうか、私の推測を越えている。また、差異がこの全体のなかで失われるのだとしても、いまだ差異はそこに<存在し>、それを外に出さねばならないと主張されるのだとしたら――この非難には、思慮のない混乱だと非難し返さなくてはならない。というのも、差異は失われるのではなく、全体のなかにすべて含まれるからである。そうした幾つかの別々の差異<以上のものが>そこに含まれるという事実は、そうした差異がそこにまったく存在しないということを証明するものではない。ある要素が経験の全体のなかで他の要素と一緒になったとき、その全体において、またその全体にとって、その要素の特殊性は存在する必要がないのである。しかし、にもかかわらず、各要素はその部分的な経験において、特殊性を有していることができる。「よろしい、だがそうした部分的な経験は」と反論されるかもしれない、「結局のところ全体からこぼれ落ちることになるだろう」と。そうした結果にはならないことは確かである。部分の自己意識、それが全体とは対立する自己意識であったとしても――それらはすべて一つの経験のなかに吸収され含まれるだろう。すべての自己意識は、自己意識としては変質し、抑圧されるが、調和のうちに抱握されることとなろう。我々はそうした経験を自分でつくりだすことができないことは私も認める。それが細部にいたるまでどのように満たされるのか想像することもできない。しかし、それが実在だと言い、一つの分割されない理解という生きた体系のなかである種の一般的な性質が結びついていると言うことは我々の力の範囲にある。この絶対の実在を主張することが続く部分で正当化されればと希望している。これで(私に失敗がなければ)、少なくとも思考の観点から見れば、自己矛盾から解放されたことを示すことができたであろう。他者を思考することの正当性は、物自体を説明し、葬り去ることの助けとなるだろう。