ブラッドリー『仮象と実在』 94

. 第十六章 誤り

 

      ... (よき反論は単に説明できないなにかではなく、矛盾する何ものかに基づいてなされねばならない)

 

 我々は我々が受け入れざるを得ない絶対の輪郭を描き、思考の一般的な道筋を指摘してきた。次には、一連の手強い反論に向かわねばならない。もし我々の絶対がそれ自体において可能なものだとしても、事物がそうであるように可能ではないと思われる。両立しがたく思われる否定することのできない事実があるからである。誤りと悪、空間、時間、偶然と可変性、「この」、「私の」といった唯一無比の個物――これらすべては個別的な経験からは外れるように思われる。それらを片づける、或は説明するには、どの道筋かを辿ることが必要だが、両方をいっぺんに辿ることは不可能に思われる。このことが明瞭に理解されるか私に不安に思われる点である。私はこのように提示されるジレンマを斥け、二つの道筋のどちらかを選ばねばならないということを否定する。私は諸事実があることを完全に認め、その起源についてこれっぽっちも説明しようなどとはせず、そうした説明の必要を断固として否定する。第一に、有限な存在が属する宇宙がどのように、そしてなぜ現在のようなものであるのか示すのはまったく不可能である。それは実際に扱える部分ではない全体の理解を含むこととなろう。それは絶対の観点から有限を見ることを意味し、それが達成された暁には、有限は変形され、破壊されるだろう。そして、第二に、こうした理解は完全に不必要なものである。我々はすべてについて考察するか、それができなければそれを絶対についての説の反駁として認めるか、この二つから選択する必要はない。こうした二者択一は論理的ではない。一般的な根拠に基づいた広範囲にわたる理論を反駁しようとするなら、それによって説明されない事実をもちだしてみても無駄なことである。説明が不可能であることは、単に個々の情報の不足を示すものかもしれず、理論の欠陥を認める必要はないからである。事実は、それがなんらかの部分と両立不可能であるときに、反論となる。それが外面的なものに止まる場合、細部における不完全さを示しはするが、原理の間違いを示しはしない。我々が理解できないということによって一般的原理は破壊されない。我々が実際にそれを理解し、理論によって採用されたものが不整合で矛盾すると示すことができたときにのみ破壊されるのである。

 

 そして、これがここでの実際の問題である。誤りと悪とは、我々が細部において見て取ることができない部分があるという限りにおいては、我々の絶対的な経験に対する反証ではない。その本質が絶対と衝突すると理解されたときに初めて反証となる。問題はその理解が正しいかどうかである。ここで、私はようやく自信をもってこの問題に加わることになる。この問題において、知識による誤った説得が行なわれているなら、それは反論する者の側にあると私は主張する。私は、我々が一般的な根拠として受け入れている絶対と両立不可能であることを示せるような有限のかたちについてなんら知ることはないと主張する。この点についての否定は、実際には無知でしかないところに知識を仮定することによってなされるのである。もしいるとするなら、全能を主張しているのは反論者の方である。どちらについても知悉しており、その両立不可能性を断言することで、無限と有限の両方を理解していると主張しているのである。私には彼が人間の力を過大評価しすぎていると思える。有限が絶対と衝突しているかどうか我々には知ることはできない。もしそれが不可能で、我々の理解する限り、両者は一つであり調和しているなら――我々の結論は十分に証明されたことになる。というのも、我々には実在はある種の性質をもつという一般的な確信があり、また一方では、その確信に反しては、無知以外のなにも提示できないからである。そして、それに反対してはなにも提示できない確信は受け入れねばならないものである。第一に誤りから始めよう。