一言一話 3

 

 

デカルトの蜜蝋

 もし蜜蝋が変化するなら、私も変化するのである。私は私の感覚といっしょに変化する。そしてこの感覚は、私がそれを思惟しているその瞬間には、私の全思考にほかならない。なぜなら、感覚するとは思惟すること、コギトのデカルト的な広い意味において思惟すること、だからである。しかしデカルトは、実体としての魂の実在性にひそかな信頼をよせている。コギトの一瞬の光に眩惑されて彼は、われ思うの主語であるわれの永続性を疑ってみることはしなかった。だが、かたい蜜蝋を感覚する存在とやわらかい蜜蝋を感覚する存在とが、なぜ同一の存在であるのか?一方では、この二つの異なった経験において感覚される蜜蝋が、同一の蜜蝋ではないとされているのに。もし仮に、コギトが受身の形に言いかえられて、私によって思惟されてあるcogitatur ergo estとなっていたとしたら、能動的主語は印象の不確かさや曖昧さといっしょに霧散してしまったであろうか?

 蜜蝋は映画やドラマで身分の高い人間が手紙に封をするものを思えばいいだろう

もっとも両者が厳密に同じものなのかどうかはわからない

蜜蝋で蜜蝋でカタツムリをつくる夢をみたら

タツムリの這いずった跡だけがのこった