ブラッドリー『仮象と実在』 96

... (誤りは現象であり、虚偽の現象である。)

 

 心理学や論理学では、問題はより容易である。誤りは間違った推論と同一視され、典型となるモデルと比較することができる。また、それが進む各段階を示すことができる。しかし、こうした探求は、いかに興味深いものであっても、大して我々の助けにはならないものであり、ここではより直接的に問題に取り組むよう努めねばならない。我々の立場を観念と実在との区別におかねばならない。

 

 誤りは虚偽の現象と同一であるか※1,(もし読者がそれに反対するとしても)少なくとも虚偽の現象の一種である。現象は存在と一致した内容ではなく、「これであること」から解き放たれた「なに」である。この意味において、あらゆる真理は現象であり、そこには性質と存在との分離を見て取ることができる。真である観念は、その内容に関する限り、実在の形容である。その限りで、存在を取り戻し、存在に属する。しかし、観念にはもう一つの側面、何ものかであり、たまたまなにかである個別的な存在をもつ。内容としての観念は、そうした出来事としての存在からは疎隔されている。現前する全体をとり、幾つかの特徴づけをしたとしても、それに変わりはない。性質づけられた内容は存在とは異なったものだからである。ある側面において、それは全体との単純な統一には止まっておらず、また、性質づけられることで単なる特徴から別の異なった事実に変わるわけでもない。「砂糖は甘い」において、砂糖に認められた甘さは砂糖と切り離され、我々の心のなかで第二のものとなった甘さでは<ない>。事物としての存在をもち、砂糖を性質づけるというのは明らかに不条理であろう。存在という観点において、観念は常に単なる現象である。個別の実在から分離したこうした性格は、通常より明白なものであり、観念は現前からとられるのではなく、再現によって供給される。述語がイメージから供給されるところでは、そのイメージの存在は述語と同一のものでは<ない>と見ることができる。それは明らかに判断の埒外にあるもので完全に無視される。※2

 

 

*1

 

 

 現象は存在と性質との遊離であり、直接的な一なるものが「これ」と「なに」に区別されることである。この遊離は更に分裂にまでなり、二つの存在が分離してしまう傾向にある。現象は、その存在とは異質の内容がその性質を受け入れるなんらかの事実と関連するときに真実となるだろう。真の観念は事実と出来事としての存在という点において現象であるが、それが性質づける他の存在との関係においては実在である。他方、誤りは実在から遊離した内容であり、矛盾する実在と関連している。それは遊離した観念の存在ではない存在による観念の排除である。自由になった形容詞の実詞による撃退である。※1かくして、それは単にあらわれるだけではなく、虚偽でもある現象である。別の言葉で言えば、観念と実在との衝突である。

 

*2

 

 誤りと真実、そして両者の区別には重要な問題があり、我々に精査を促している。しかし、それらの問題については後の章に譲る方がいいだろう。ここでは、限定的に、できる限りの力を使って、二つの主要な問題を考えることにしよう。誤りは、存在と一致することもなく、実在の形容として許されることもない内容である。もしそうなら、こう問わねばならない(1)なぜそれは実在によって受け入れられないのか、そして(2)にもかかわらずどのようにして実際には実在に属することができるのか、である。この最後の結論が必然的であることは既に見た。

*1:

※1 第二十六章参照。

※2 164ページと比較せよ。

*2:※1形容詞がこの或はどの実詞から自由になるかにはなんの相違もない。