ブラッドリー『仮象と実在』 97

  ... (誤りは実在と調和しないために実在によって排除される。)

 

 1.誤りが実在によって排除されるのは、実在が調和し、必然的にそうとられるべきである一方で、誤りが自己矛盾しているからである。それが(もしそれが可能なら)存在と一致しない内容だと言いたいわけではない。※1観念としての内的な性格そのものが不調和で、自己矛盾していると言いたいのである。私は誤りを自己矛盾する<述語>と呼ぶことを好まない。そうした発言は、判断が試みられる<以前に>、矛盾が単なる述語として既に存在しているととられるからである。それは、もし擁護することができるとしても、誤った方向へ導くものとなろう。誤りは実在の性質づけであり、その結果において不整合な内容をもっているために排除されるのである。存在が自身と衝突する「なに」をもっているとき、この「なに」という述語は誤った判断である。もしある実在が整合しており、更なる限定が不調和をもたらすなら、附加したものが誤りであり、実在は影響を受けない。しかしながら、その本性が不調和に関わっていないと想定されるときにのみ影響を受けないのである。そうでなければ、全結果が虚偽に汚染され、実在は矛盾から純粋さを保つことが決してできないことになろう。※2

 

 

*1

 

 

 この誤りに対する一般的な見解は、あり得る反論に答えることでより明瞭になろう。誤りは、ある人たちには、経験、或は経験によって与えられたものから発すると想定されている。ある場合には、内的なイメージと外的な感覚との混乱によるとされる。こうした見解は、もちろん、もっとも皮相的なものである。単なる所与を見いだすことの困難、真実の検証法として常に実際に存在する感覚を使用することの不可能性は別としても――外的な感覚は決して誤ることはないという奇妙な偏見と、「内的なもの」が「外的なもの」と同じくらい確実な事実だと理解することのできない鈍感な盲目さも別として――この反論はきれいに片づけることができる。というのも、もし与えられたものが調和のない内容をもっているなら、どうして我々は実在ではない内容を「与えられたもの」として受け取ることができるだろうか。これを否定するにせよ、与えられたものには決して矛盾は存在しないと主張するにせよ、それはご自由である。同じ見解をより説得力のある形で考え進めることもできよう。「我々は自分の都合だけで述語をつけ加えたり、取り去ったりはしない。任意の結果が眼に見えて自己矛盾しない限り、それを真実とも思わない」と言うこともできる。我々がそうすべきだと言っているわけではない。

 

  外面的に知られる真実と誤りについては、もちろん、単純に無視することができる。※1つまり、あらゆる場合において、主張は正しいか間違っているかでなければならない。しかし、現在の場合、どちらでもないことがあり得る。他方において、<もし>言述が誤りであれば、その内容が内的に衝突しあっているためにそうなのだと我々は知っている。「しかしそれは」と反論者は答えるかもしれない、「この場合には当てはまらない。ある時、ある出来事が起こる、或は起こらないという発言をとってみよう。これは事実との不一致のために間違いかもしれないが、自己矛盾があるために間違っているというわけではない」と。だが、私はまた、我々は事実との対応の欠如を咎める更なる根拠を有しているのだと主張しなければならない。というのも、そうした根拠なしに、どうして我々は或は事実はこうした欠点に対する反論をすることになろうか。ウィリアムが首つりにされたとき、私がそれをジョンだと主張すると仮定しよう。現実は両方の出来事を認めるわけにはいかず、ウィリアムだということは確かであるから、私の主張は間違っているだろう。もしそうなら、結局、私の誤りは実在に自己矛盾した内容を与えたことに存することは確かである。別の場合、ジョンが示唆されたなら、私はその観念を排除することはできなかった。確かにウィリアムだったが、私が知る限りではジョンもそうだったとせいぜい言えるだけだろう。しかし、現実的には次のような過程が辿られる。「ジョンであり<かつ>ウィリアム」であるというのは不整合な内容であるから、この発言は、それがジョンだという限りにおいて間違っている、と。※2同じように、もし誰もいないのに、ジョンが存在すると主張されたとすると、欠如を示す判断の性質については論じることなしに※3、その間違いを理解することができる。実在に不整合となるようなこと、その結果間違いであることを強いてみるわけである。容易でもあり、また無益でもある問題の追跡を更に行なうこともできよう。以上のことを考えてみた読者には、我々の主要な結論は既に達成されていると信じねばなるまい。誤りは自己矛盾による性質づけである。述語を通常の意味にとれば、あらゆる場合に矛盾がそのなかにあると位置づけるべきではない。矛盾が性質づけの結果のなかに見いだされる場合に、我々はそこに誤りをもつのである。これで、この章の第二の主要な問題に移るとしよう。

 

 

*2

 

*1:

※1最終的には、限定的な述語や主語はいずれも調和のあるものとはなり得ない。

※2この説は第二十四章で修正される。限定的な述語や主語は決して真に自己整合的であることはあり得ない。

*2:

※1より以上の説明については、第二十七章参照。

※2ここではなぜウィリアムではなく(或は両人ではなく)ジョンが犠牲になったのかという問題には触れないことにする。

※3第二十七章を参照。