一言一話 7

 

 

ベルグソンバシュラール

ベルグソン氏とわれわれとの間には、常に変わらない方法の相違が存在する。すなわち彼は、出来事にみちた時間を、それらの出来事の意識の水平そのものにおいてとらえ、ついでそれらの出来事、したがってそれらの出来事の意識をだんだんと消していく。思うにそのようにして彼は、出来事のない時間、つまり純粋持続の意識に到達するのであろう。これに反してわれわれは、意識する瞬間を積み重ねるときにしか、時間を感覚することはできないと考える。たとえわれわれの怠惰が、思索を生ぬるいものにしているとしても、持続しているという、多少とも漠然とした感情を持つのに充分な、感覚や肉体の生によって豊かにされた瞬間が、なおわれわれに残されうることはいうまでもない。しかし、われわれとしては、その解明はただ思考の積み重ねの上にしか見出しえないだろう。時間の意識とは、われわれにとっては常に、「瞬間」の利用の意識であり、それは常に能動的であってけっして受動的ではない。言いかえれば、われわれの持続の意識とは、我々の内部存在の進歩ーーたとえその進歩が実効あるものであれ、見かけだけのものであれ、あるいは単に夢想されただけのものであれ、--の意識のひとつである。

 瞬間がそれほど目立たぬところ、時間というものがそれが経過しているうちには意識されない場面、例えば音楽や小説や映画に没入し、のちに振り返って初めてそこに時間の経過を認めるのならばようなときには、瞬間と持続の問題はアキレスと亀の一変種とたいして変わらない。持続には瞬間が必ず包含されており、瞬間の連続が持続に追いつくことはない。