ブラッドリー『仮象と実在』 100

 ... [その事実上の不調和は消し去ることができる。]

 

 しかし、我々の考察は不完全であるために擁護できない、というのは正当な反論であろう。誤りは単に否定的なものでは<ない>からである。孤立した不調和の内容は、結局のところ、事実上の不調和を伴っている。諸要素が存在し、その主部に対する関係がすべて絶対のうちに存在し、なにかを補うことですべて真実にするとしても、問題はいまだ解決しない。とどのつまり、誤りは部分的で、矛盾し続けることにこそあるのであり、こうした不調和はあらゆる可能な再編から免れ続けるだろう。私はこの反論を認めるし、支持もする。誤りの問題は関係を拡大することで解決することはできない。誤った位置づけの各々を、調和をもたらす操作によって一要素として、全体のなかに組み込むことはできない。各現象には実在としての意味と特殊な性格があり、それはそこから洩れてしまうだろう。あらわれているものはなんらかの形で存在しており、そのすべてが再編のなかに組み込まれることはない。

 

 だが、他方において、絶対は関係の図式ではないし、そうしたものとして考えることもできない。もしそのように考えるなら、全体の調和のある統一は存在しないだろう。絶対はどれ程多くのものが補われようと、単なる配置を越えたものであり、ある配置は存在の一側面に過ぎない。既に見たように、実在はより高次の経験、相違を含みそれを越えて拡がるものによって成り立っている。このことで、誤りを変化させることに対する最後の反論もその根拠を失う。誤りが実際の孤立であり、より広範囲にわたる関係のうちに解消することができないという一側面を強調すること――これもまた、どのようにしてかは我々にはわからないが、絶対の調和に帰することとなろう。あらゆる「なに」と「それ」、およびその諸関係とともに、もう一つの細部となり、全体のなかに吸収され、その完成の役に立つこととなろう。

 

 この見解については、誤りと真実についていまだ扱わねばならない問題が存在する。しかし、誤った現象がもたらす主要なジレンマについては解決されたと思われる。それらは存在するが、その通りのものとしては実在ではない。その配置は「なに」と「それ」のより広範囲な再編のもと真実となる。誤りは補われることで真実となる。その事実上の孤立も還元されうるものであり、全体のなかの要素として存在する。誤りは存在するが、単にそうあらわれているものとして存在しているのではない。その偏向もまた部分的な強調であり、その固執も、どのようにしてかは我々にはわからないが、より大きな生命の力に寄与するのである。そうであれば、その限りにおいて、全体的な問題は処理されたことになる。