ブラッドリー『仮象と実在』 103
... [悪のいくつかの意味。苦痛としての悪。]
悪は、我々みなが知るように、いくつかの意味がある。(I.)苦痛、(II)目的実現の失敗、(III)不道徳、というのが挙げられる。最後の点についての十分な考察は後の章で、有限な人間と絶対との関係として扱うことができるようになるのを待たねばならない。
I.苦痛が現実に存在することは、もちろん、誰も否定できないであろうし、少なくとも私は、それが悪であることを否定しようとは夢にも思わない。しかし、他方において、我々は苦痛が絶対のなかにいかにして存在することができるのか理解することができない。※1苦痛が現実の存在であることは認められるが、問題はその性質が変化させられるかどうかにある。より高次な統合においては、苦痛は消え去るのだろうか。もしそうなら、苦痛は存在するが、全体において考えると苦痛であることを止めるということになろう。
我々は、ある程度において、現実の経験で、苦痛の中性化を証明できる。小さな苦痛が、より大きな複合的な快楽に完全に呑み込まれてしまうことがしばしばあるのは確かである。そうした場合、破壊されてしまって、併合されたわけではない苦痛は、ほぼ根拠のないものとなるのは確かである。私の状態が全体として心地いいものではなく部分的に苦痛があると仮定することは、事実に反している。複合的な状態において、苦痛は間違いなく快楽を損なうだろうが、結果として生じているのは、いまだ、快楽のある全体である。こうした均衡は、我々が絶対的な完成において求めているものである。
この点について我々はペシミストとなんらやり合うつもりはない。「均衡の存在という一般的な結論については私は受け入れる」と彼は答えるだろう、「結果において一つの特徴が呑み込まれてしまうことについては同意しよう。しかし、あなた方にとっては不運なことだろうが、その特徴とは苦痛ではなく、快楽なのだ。全体としての宇宙は、苦痛に満ちたもので、それゆえ、完全な悪である」と。ここで私はこうしたペシミスムについて調べてみるつもりはない。それは両者について心理学的な議論を重点的に行なうことになるであろうし、私の見解ではその結果はペシミズムに致命的なものになる。我々の見るところ、この世界に公平な目を向けてみれば、均衡の量を正確に判断することは困難であり、過大視することは容易であるにしても、苦痛よりは快楽がより多く発見されるであろう。このことを離れても、私は自分の結論に保持するだろう、と告白せねばならない。私は、宇宙において快楽が優勢であると信じている。この推測は、私には逃れられないものと見られる原理に基づいており(第十四章)、それによれば、我々の見る世界は実在の非常に小さな部分に過ぎないのであろう。我々の一般原理は大量の個別な現象を押し止めざるを得ない。もし必要とあらば、なんのためらいもなくここでの問題をこうした議論に従わせることができよう。しかし、そうした必要はないのである。観察される事実として明らかに、全体は快楽による均衡が保たれている。主要な部分で原理によって支えられてもおり、ペシミズムはなんのためらいもなく排除することができよう。
この限りにおいて、苦痛が絶対においては存在しなくなる可能性のあることが見いだされる。この可能性は、ある程度は、経験によって検証されることを示した。快楽による均衡という一般的な推測を得た。ここでもまた、誤りのときと同じように、可能性で十分である。というのも、なにかが<可能>であり、またそうで<なければならない>なら、そう<である>ことは確かだからである。
それ以上に進みたいと思われる読者もいることだろう。絶対においては、苦痛は単になくなるだけではなく、快楽を高めるためのある種の刺激として役立つのだと。こうしたことが可能であるのは間違いない。しかし、事実と認めるだけの正当な根拠は認められない。絶対においては、恐らく有限な魂の外部の快楽など存在しないだろう(第二十七章)。我々が見ることのないものが、我々が知っているものよりより幸福だと想定する根拠などない。それゆえ、可能ではあろうが、それ以上のことを主張する正当性はない。我々の原理より先へ進む権利などないからである。明らかな快楽の均衡が存在し、原理が満足されれば、絶対の完成に立ちふさがるものはなにもないことになる。完成が量的に増大することでより完成されると考えるのは誤りである(第二十章)。
*1:※1第十四章。この結論は、第二十七章において幾分修正されるが、明快さを保つため、ここでは条件をつけることなく述べておく。読者は、必要であれば、後で、この章の結論を修正することができるだろう。