ブラッドリー『仮象と実在』 105

   ... [不道徳としての悪。]

 

 道徳的悪は更なる難点をもたらす。我々が目的とする内的観念と外面的な存在との単なる欠如や失敗の問題ではない。実際の戦いや対立と関わっている。我々はある観念をもっており、それには実現しようとする目的がある。他方において、その存在もある。この存在は単に一致しないだけでなく、逆らって争い、衝突が感じられる。我々の道徳的経験において、こうした事実は疑問の余地なく与えられている。我々の内部において、よき意志と悪しき意志との争いがあり、悪の確かな存在が感じられる。もし望むなら、この不調和なしには道徳は完全に消滅してしまうから、不調和が必要なのだとつけ加えることもできる。

 

 こうした不調和の必要性が問題の中心への道を指し示す。道徳的悪は道徳的経験においてのみ存在し、その経験はその本質において矛盾に満ちている。というのも、道徳性は、悪を抑圧し、無意識のうちに完全な無道徳性になることを望んでいるからである。この結論に尻込みしていることは確かであり、知らず知らずのうちに、悪の存在と永続性を望んでしまっている。この問題については後に触れることにするが(第二十五章)、ここではただ一点だけを押さえておけば足りる。道徳性そのものが悪になると、悪において、自らの存在の条件を取り除こうとする。それは本質的に超道徳性へ向かうことであり、無道徳性の領域に足を踏み込むこととなる。

 

 しかし、これに従い、率直にこの傾向を受け入れれば、我々の難点は解決される。悪として、善に対立するものとして意志された内容は、より広い布置における一要素として捉えることができるからである。悪は、よく言われるように(意味されているところは違うが)、打ち負かされ、従わされる。悪はより高次の善なる目的に組み込まれ、その一部となり、この意味において、知らぬうちに善となっている。道徳的である意志が善であるかどうか、またどの程度そうであるのかは後に議論すべき問題である。ここで理解しておく必要があるのは、「天の意志」というものがあるとすれば、それは良心的で無垢なものと同様に、「カティリナやボルジア」においても結果として実現することがあり得ることである。というのも、高次の目的な超道徳的であり、我々の道徳的目標は制限され、不完全なものだからである。身体的な悪と同様に、調和がより広い範囲において考えられれば、こうして不調和は消え去るのである。

 

 道徳的悪についていくつかのことをありのままにつけ加えておこう。不完全な目的とその孤立という事実だけではなく、自己において現実に衝突が感じられることもある。このことは、絶対のなかに必然的に組み込まれるということで説明し去ることはできず、不調和は解決されないままに残る。しかし、我々の古くからの原則がこの反論を取り除くのに役立つだろう。衝突や争いはより完全な実現の一要素であり得る。機械で、各部分の抵抗や圧力がそれ自体を越えた目的のために働いているように――より高次の段階においては、衝突は絶対のうちにあるのかもしれない。衝突だけでなく、それに伴い増大していく特殊な感情も、包括的な完成のなかで取り上げることができる。我々はそれがどのように行なわれているか知らないが、うまい例えがあれば(それを見いだすことができれば)説明に役立つこととなろう。説明は諸性質の関係の形式をとる傾向にあり、この形式は(既に見たように)必然的に絶対のなかに超越するものであるからである。こうした存在の完璧なあり方は我々の耳障りな不調和を解消することになろう。そうした調和が可能であることをどうして否定することができるか私にはわからない。もし可能なら、先に述べたと同じように、疑いようのない実在である。一方において、それを主張し続けていくだけの抗しがたい根拠をもっており、逆の方向には、私の見る限り、なにもないからである。