ブラッドリー『仮象と実在』 108

  ... [起源を問うことは不適切であり、「意識の事実」に訴えても無駄である。]

 

 時間の起源を問うことは不必要である。心理学的に無時間的な要素から生みだされたと示すことは可能ではない。その意識は一般的に発達のある段階に付随して生じる。いずれにしても、その完成した形での意識は明らかにある結果である。しかし、時間の感覚をそのもっとも単純で発達していない形で捉えたとしても、それが最初は存在しなかったと示すことは困難であろう。こうした問題は、答えられたとしても、形而上学にとってはほとんど重要性はない。時間が発達の過程に関わると仮定されれば、より高次の段階において消え去るという想定がされることも可能である。しかし、この想定をより詳しく考えてみても価値があるとは言えない。

 

 この点について、事実をもとにした反論に答えておこう。もし時間が非実在でないなら、絶対が幻影であることを私は認める。しかし、他方において、時間が単なる現象でもあり得ないことは主張される。有限の主体における変化は直接説的な経験の問題である。それは事実であり、説明し去ることはあり得ない。もちろん、その多くは疑う余地がない。変化は事実であり、更に、この事実はそのものとしては絶対と調和し得ぬものである。事実がどのように非実在的なものであり得るか理解することができなければ、我々が希望のないジレンマのなかに追い込まれることは私も認める。というのも、我々は実在について簡単に手放すことができないような見方をもつべきであるが、他方において、この見方と矛盾する存在をもつからである。しかし、我々の実際の立場はこれとは非常に異なっている。時間は自己矛盾をあらわしており、そのために現象なのである。この不調和はより広範囲の調和における一要素となるだろう。このことによって事実への訴えかけは価値のないものとなる。

 

 経験への訴えかけが実在を証明することができると想定するのは単なる迷信である。世界や自己の存在においてなにかを見いだすことは、そのなにかが存在することを示し、それ以上を示せるわけではない。意識の判断は――もともとあるものであれ獲得されたものであれ――意識の判断でしかない。我々が受け入れざるを得ないような神託でもなければ啓示でもない。他の事実と同じく、扱うべき一事実である。なんらかの事実が現象以上のものであるという見込みはどこにも存在しないのである。「与えられたもの」はもちろん与えられている。それを認めねばならないし、無視することはできない。しかし、所与を認めることと、その内容を実在として盲目的に受け入れることには非常に大きな開きがある。一言にそれを言えば、神聖なる所与など存在しない、となるだろう。形而上学は強制による以外は経験の要素を重んじることなどあり得ない。それは批評と否定によって間違いようもなく自己主張されることを除いてはなにを崇拝することもあり得ない。