ブラッドリー『仮象と実在』 111

     ... [時間の統一。なにも存在しない。]

 

 1.取り組むべき最初の点は、時間の<統一性>である。私の見解では、時間を<一つの>継起、あらゆる現象を一つの時間的つながりに属するものと見なす根拠はない。もちろん、我々はあらゆる時間を単一の系列の各部分を形づくるものと考える傾向をもっている。現象はすべてそこで生じた出来事であることは明らかなように思われる。※1それが生じたものであるからには、更なる結論に向かうことになる。我々はそれらを一つの時間的全体の成員と見なし、互いに「以前」、「以後」、「同時」という関係にあるものと見なす。しかし、この結論にはなんの正当性もない。というのも、独立した時間系列が数多く存在することについてなんら確実な反論はないからである。その場合、各系列の出来事は時間的に相互に関係しているが、それぞれの系列は、系列として、全体として、外部となんら時間的関係をもっていないことになろう。私が言いたいのは、宇宙において、我々は多様な現象の継起をもつことができるということである。各系列での出来事はもちろん時間において関係しているだろうが、系列そのものは互いに時間的に関係している必要はないのである。つまり、ある系列での出来事は、別の系列での出来事の後であったり、前であったり、同時であったりする必要はない。絶対において、それらは<時間的な>統一やつながりをもってはいないだろう。それ自体において、他の系列との関係をもつことはないであろう。

 

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 人間の経験のうちから私の言わんとするところを示してみよう。我々が夢見ているとき、我々の心が自由にさまよっているとき、想像の物語を追っているとき、なんらかの想定される順序について思いを巡らせているとき、我々は問題を提起している。それを見て取ることさえできれば、大きな問題が存在する。そうした継起のなかで、出来事は時間的なつながりをもっているが、ある系列を別の系列と一緒に考えると、そこに時間的な統一はないのである。それは、我々が「実在の」出来事の過程と呼ぶものと時間においてつながりをもってもいない。イモジェンの話のなかの出来事が、船乗りシンドバッドの各冒険と時間的にどう関係しているのか、或は、それらの冒険が昨晩の、そして去年の私の夢のなかでの出来事とどう関係しているかと尋ねられたとしても、そうした質問がなんの意味ももたないことは確かであろう。それぞれの時間的関係を一度に見渡すことのできる固有色は別として、そこに時間的関係は存在しない。あるものが他のものの時間的に前にあるのか、後にあるのか言うことはできない。また、それらの出来事が<私の>心的世界にあらわれた時日を特定するのは馬鹿げたことであろう。それは図書館の本に語られたあらゆる出来事を出版の日時に従って並べ替えるようなものであり――同じ物語が異なった版で繰り返され、今日の新聞と歴史とがまったく同時期のものとなる。こうした不条理が継起が時間的つながりを必要とはしないことを我々に理解させる助けとなるかもしれない。

 

 「そうかもしれない、だが」と反論があるかもしれない、「想像的であれ実在のものであれ、こうした系列は私の心的歴史の出来事として確かな日付をもつ。それぞれがそこに位置を占め、それを越えて、一つの実在的な時間系列にある。どれだけある物語が心のなかで繰り返されたにしても、それぞれの機会がその日付をもち、時間的関係を有している」と。疑いなくそうであるが、こうした回答はまったく不十分である。第一に、それは我々が主張していることの大部分を認めてしまっている。我々の「非実在的な」系列が時間的な内的関係をもたないことを認めねばならない。さもないと、例えば、ある物語が繰り返されたとき、時間の継起が内容に影響を与え、反復が不可能になるであろう。まずこの重大で致命的な承認に注意を向けよう。

 

 それを考えてみると、反論もともに崩れてしまう。ある意味、多かれ少なかれ、我々があらゆる現象を一系列の出来事と配列することは確かである。しかし、そこから全体としての宇宙において、同じ傾向があるということが引きだされるわけではない。<すべての>現象が時間において関連しているということが導かれるわけでもない。<私の>出来事において真実であることは、他の出来事についてもそうである必要はない。また、私の不完全な統一に絶対が限定されるわけでもない。

 

 一般的な言葉を使えば、私が「実在」と呼ぶ出来事は連続的な時間系列に私が配列する現象のことである。それは私の個人的経験の同一性において一なるものとしてある。現前するものが「実在」であり、この基盤に立って私は後方、前方に伸びる時間系列を打ち立てる。そして、内容の一致する点を結びつける環として用いる。※1この構築物が私が「実在の」系列と呼ぶもので、どんな内容であれその配置から逸脱したものは非実在と判決を下す。この過程はある範囲において正当化しうる。ある種の現象の集合があり、この集合内の実在にとってある種の時間の関係が本質的だと言われているだけなら、間違いなくそれは正しい。しかし、あらゆる可能な現象がその系列においてある位置を占めると主張するのはまったく別の事柄である。また、あらゆる時間系列が絶対において時間的な統一をなすと主張するのもまた別のことなのである。

 

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 第一の点から考えよう。<私の>時間配列に位置を占めるもの以外いかなる現象も「実在」でないなら、まず始めに「想像」の世界から手を引くことになる。そこでは継起の事実は「非実在」となり、どのように名づけられようと免れるすべはない。ついでに、精神的な病によって私の「実在の」系列が崩れ去るという難点についても言及しておこう。しかし、原則によって、現象は<私の>世界との時間的関係がないなくとも存在しうることは否定されている。この想定について私はいかなる根拠も見いだすことができない。私が気づくことなく、私の時間系列から離れた出来事の変化がなぜ、どのような根拠によって存在し得ないのかと尋ねられても、私にはいかなる答えも見いだすことはできない。私の見る限り、絶対には互いに関係のない数多くの時間系列が存在し、時間の統一など存在しないかもしれないのである。

 

 このことが第二の点へ我々をもたらす。内的関連や統一のない現象が存在することは不可能であることは私も同意する。しかし、この統一が時間的なものであり、さもなければ存在しないとは私は認めることができない。それは<我々の>不完全なやり方で事物を見ることであり、絶対の可能性を狭めることである。絶対が我々の人間的な限界に収まらないことは確かである。既に、その調和は諸関係を越えた何ものかであることは見た。もしそうなら、無数の時間的系列が、時間において互いになんの関係もないまま、包括的な完成のなかで統一される方法を見いだす可能性のあることは確かである。もしそうなら、時間は、単一の系列を形成するという意味で一つのものとはならないだろう。無数の時間が存在し、時間的出来事を保持するが無時間的である永遠のうちでそれらすべてが一つになろう。いずれにしても、我々はそれ以外の時間の統一に関する証拠を一片たりとも見いだすことはないのである。

*1:※1この点については第二十三章を参照。

*2:※1こうした構築については84ページと『論理学原理』第二章を参照。