ブラッドリー『仮象と実在』 112
... [時間の方向。なにも存在しない、或はなんらかの数が存在するかもしれない。]
2.次にもう一つの点、時間の<方向>に進もう。あらゆる現象を一つの系列のものと仮定しがちであるように、我々はあらゆる系列が単一の方向を向いていると見なす。しかし、この仮定もまた根拠がない。未来にある一点を定め、それに向けてあらゆる出来事が流れていく、或はそこから出来事がやってくるととるのは自然なことであり、またそれがなんらかの形で流れを方向づける助けとなるようにも思える。しかし、調べてみるとこの自然な見方の不完全性がすぐに明らかになる。方向、過去と未来との区別は完全に<我々の>経験に依存しているからである。※1新しい感覚がやってくる方向を我々は未来としている。我々の知覚では、変化する要素が出ていき、常に新たななにかがやってくる。我々は完全にこの経験に基づいて時間系列を構築する。かくして、出来事を過去から前に向けて進むものと見なそうと、未来から生じてくるものと見なそうと、どちらの方向づけも用いている方法は一つのである。我々の固定した方向は新たにやってくるものの出現によってのみ与えられる。
しかし、もしそうなら、方向は<我々の>世界と相関的である。事物の本性に従って定まり、それが個々の領域に伝えられているのだと反論されるかもしれない。だが、どうしてこうした仮定が正当化されるのか私にはわからない。もちろん我々の存在にこうした差異をもたらす我々以外のなにかがあり、そのなにかが他の生や我々の事実を一つの順序に配列させるのである。しかし、このなにかは実在にあり、それ自体方向をもったものでなければならないのだろうか。私にはそう考える根拠が見いだせない。疑いなく、我々は現象の全世界を単一な時間系列にあると当然視している。有限な存在の継起的内容はその構成によって配列されており、それらの流れがみな一つの方向であることを当然と見なしている。しかし、我々の仮定が擁護しがたいものであるのは明らかである。第一に、我々の経験する世界となんら接することのない存在があると仮定してみよう。この仮定は自己矛盾、或はとても可能とは言えないことだろうか。次に、絶対において、それらの生の方向が我々とは正反対を向いていると想定してみよう。再び問うが、そうした考えは無意味で、理解できないものだろうか。もちろん、<もし>どうにかして<私が><彼らの>世界を経験できたとしても、それを理解することはできないだろう。死が誕生の前にあり、打擲が傷の後に続き、すべてが非合理的に思われるに違いない。私にはそう思われるだろうが、その不整合は私の部分的な経験を除いては存在しないであろう。もし私が彼らの順序を経験しないなら、私にとってそれは何ものでもない。或は、私がそれを私の生という限界を超えた観点から見ることができるなら、それ自体は方向をもたない実在を見いだすこともできよう。有限な存在の生に方向を与えることもあるが、それ自体は有限な経験には収まらず、もしそれを理解するなら、<両方の>方向が首尾一貫した全体のなかで調和をもって結びついているのが見て取れよう。
経験を超越し、物自体の世界に達するのが不可能であるのは私も同意する。しかし、それはあらゆる意味における宇宙が<私の>経験の可能なる対象であることを意味するであろうか。<私の>世界をつくりあげる事物や人間の集合が存在の総計であろうか。私はこの問題に肯定的に答える根拠を知らない。多くの物質的体系が、中心点なしに、空間における関係なしに存在する――そのどこに矛盾点があるだろうか。※1多様な経験の世界が別々に存在し、互いに入り込むことがない――そのどこに不可能があるだろうか。矛盾や不可能はある先入見を認め、それに立脚したときに始めて生じる。絶対における統一が我々が経験しているような統一、空間には中心があり、時間には合一する点があるというのはなんの根拠もない仮定である。正反対も可能であり、必然的でさえあることを見てきたわけである。
絶対に多様な時間系列があると考えるのは困難なことではない。各系列の方向はそれ自体においてのみ意味をもち、外部に対してはなんの意味ももたないこともあり得る。もし望むなら、その方向が互いに逆であると想像することもできる。例えば、次のような図式をとってみよう。
a b c d
b a d c
c d a b
d c b a
この内容を考えれば、全体を固定したものと考えることができる。様々な部分があるが、全体としてとれば、変化と継起から自由であると見なすことができる。変化は異なった系列を見るときにのみあらわれるだろう。こうした系列の多様な方向は全体にとっては存在しない。多いにしろ少ないにしろ、我々が現在として想像する多様な系列は、異なった経験がその方向とともにつくりだすものであり――それらはすべて個人的な感情に関するものだということができる。どの系列、どの集合を生として選ぶこともでき、好きなように上下左右に進める。どの場合でも、その方向にはそれ独特の感覚が与えられるだろう。間違いなく、そうした知覚は全体のなかに存在しているに違いない。それらはすべて存在し、なんらかの方法で絶対を性質づけているに違いない。しかし、絶対にとっては、それらは互いに均衡を取り合っており、その性格は変化している。それらは継起とともに一つの全体のなかに一緒になり、そのなかに特殊な性質は吸収される。
空想を働かせれば、それ以上のことも想像できる。我々の生のそれぞれの時期をともにする別の個人がいることも想定できる。我々と同じ歴史を過ごしながら、逆の方向を向いている人間である。かくして、我々の存在をつくりあげる継起的な内容が別の有限な魂の生でもあると想像できるのである。※1我々の間の相違は残るであろうし、それぞれの相違は附加される要素にあることになろう。それぞれの継起の道筋が相違をもたらし、それが特殊な個人をつくりあげる。もちろん、この相違は存在する。しかし、絶対においては、ここでもまた、なんらかの方法によって、それらは相反するものではなくなるだろう。それとともに、方向の多様性、継起そのものは消え去ってしまうだろう。千里眼や魔法の信者はこの種の見解をその突飛な考えのうちに見いだすことができよう。しかし、これはいわでもがなのことで、私自身はこうした考えに心を奪われたことはない。ここでの私の目的な単純なことだった。あらゆる時間系列の時間的な統一にしろ、それらの方向の共通性にしろ、なんら証拠になるものはないことを示したかったのである。その多様性がどれ程大きなものであろうと、それは絶対のなかで一緒になり、変容することが可能である。ここでも、前と同じく、実在を証明するのに必要なのは可能性だけで十分である。
絶対は関係を越えたもので、それゆえ、統一をあらわすような関係の図式をつくりあげることは我々にはできない。しかし、この永遠の統一は我々の一般的な原則によって確実である。いま見てきたように、時間それ自体は、宇宙は時間を欠いたものではないと仮定する必要などないのである。※1