ブラッドリー『仮象と実在』 113

   ... [因果関係の順序は現象でしかない。]

 

 残った難点についても、いくつか述べておいた方がいいだろう。因果関係においては、逆転することのできないような継起が含まれていると言われる。世界を理解するための無数の関係のなかには、その本質において時間的順列や共存を含むものがあると主張されよう。こうした理由から、時間は絶対と衝突するとつけ加えられることにもなろう。しかし、我々が既に到達した地点から見れば、この反論はなんの重みもない。

 

 まず、原因と結果の関係はそれ自体擁護可能なものだと想定しよう。だが、我々はあらゆる現象を結びつけるような因果関係についてはなんの知識も持っていない。異なった世界が宇宙のなかを隣り合わせに進み、原因と結果の系列にないこともあり得る。因果関係による統一に関して有効な議論が見いだされるまでは、これは可能なこととして考えられるに違いない。我々自身のこの世界においてさえ、どれだけ不満足な継起が因果関係とされていることか。実際、単なるaが単なるbを生みだすというのは決して真実ではない。それを特殊化されていない背景においたときにのみ真実であり、それなしでの発言は単に大目に見られているに過ぎない(第六章、二十三章、二十四章)。継起の全体は、もし擁護できるものであれば、自らの変容を認めるだろう。我々は(X)bは(X)aに続く結果であることを認めるが、恐らく二つは同一である。継起と差異は孤立した欠陥のある観点にのみ存在する現象であろう。継起の関係は肉づけをすれば真実だが、その性質を変え、補われることで絶対においてその性質を失うに違いない。より高次の真理の断片化もしれないが、同一と見なすのは偏見である。

 

 こうした考察は反論の矛先を因果関係という根拠から絶対のほうへ向けさせることになろう。しかし我々は第六章において、この根拠が擁護しがたいものであることを見た。その矛盾によって、因果関係は自身を越えたより高次の真実に向いている。ここでもう一度、簡単にこの点を明らかにしておこう。因果関係は変化を含み、変化を矛盾なしにどう述語づけるのか知るのは困難である。「aがbになり、変化したものはなにもない」と言うのは全くの無意味である。もし変化が存在するなら、なにかが変化している。変化が可能なのは、なにかが変わらないからである。それではどう変化を説明すればいいのだろうか。「XaがXbになる」。もしXがaであり、その後にbであるなら、aはその性質であることを止めるので、ある変化がXの内部で生じている。しかし、もしそうなら、明らかに我々は<その変化を越えた>不変のものを必要とする。他方において、この危険を避けて、Xaを変化しないとするなら、別な具合に破産する。我々はどうにかしてXに<両方の>要素を性質づけねばならないが、そのとき継起はどこにあるだろうか。継起する要素はXの内部によくわからぬ仕方で共存し、継起は単なる現象に降格される。

 

 別な具合に言って、「Xは最初Xaで、後にXbにもなる」と言ってみよう。しかし、以前には<単なる>aが真であったものが、どうして「後にはbにもなる」ことが真実たり得ようか。「いいや、単なるaではなかった。<単なる>Xaではなく、後にbにもなる(cを与えられた)Xaである」と答えるのだろうか。しかし、こうした回答は似たような難局に我々を置き去りにする。もしXa(c)が後にbとなるX<である>なら、これらの項をどう区別すればいいのだろうか。それらに相違があるにしても、ないにしても、我々の主張は保ちがたい。もし相違が存在しても正当化できないし、存在しないとしても、つくりだすことはできない。それゆえ、我々は主語と述語が同一で、分離と変化は現象でしかないという結論に導かれる。それは全体につけ加えられた性質であることは確かであり、我々の理解を超えたやり方でつけ加えられている。より高次の同一性においては、主語述語の区別は失われ、要素でしかなくなる。

 

 或は、世界の現在の状態は次に続く全体的状態の原因であるといってみよう。ここでも、同じ自己矛盾があらわれる。というのも、どうしてaが異なった状態であるbになると言えるのだろうか。根拠もなしにそう言うのであれば不条理であるし、根拠を得るためになにかをつけ加えて新たなaを永遠に作り続けねばならなくなろう。我々は時間との関わりにおいて原因と結果という異なったものをもっているが、それを一緒にできるような方法は持ち合わせていない。かくして、我々は原因は部分的であるに過ぎず、複雑な全体の内部における単なる要素の変化でしかないという見方を取ることになる。しかし、この見方は更に敷衍し、世界の全体的状態が変化しうるということを否定するまではなんの助けにもならない。こうして我々は部分的変化は変化ではなく、不変の全体のなかで互いに均衡を取り合っているだけだという説にいつの間にか変わってしまう。確かに継起は現象として残るが、その特別な価値を我々は説明することはできない。因果的順列はそれ自身を越え、本質的に無時間的な実在のなかに入り込む。それゆえ、因果関係によって絶対の永遠性に反論を試みようとしても、因果関係はその本性に含まれた原理を否定してしまうことになるのである。

 

 この章を終るにあたり、我々はある確信に到達できたと私は信じる。単に以前と同じく、時間が非実在だというばかりでなく、その現象が非時間的な宇宙と両立されるものであることが確信された。変化が永遠に対する信念を阻むというのは誤解に過ぎない。正確に理解すれば、我々の説に反対を示す想定の余地はない。絶対は存在しなければならない。逆の方向から再び言えば、それは可能であることが判明する。それゆえ、実在であることは確かである。