ブラッドリー『仮象と実在』 114

    ... [空間は、起源はどのようなものであれ、それ自体を超越する。]

 

 空間の本性について少々述べることでこの章を終ろう。※1時間から移ると、なんら新しい難点に出会うこともなく、欲せられているのは数言であるように思える。空間の起源についてここで解き明かそうとは思わない。どのように存在するにいたったかを示すのは私には可能でないように思われる。我々の主張な観点からすれば、我々がどうやって物理的世界を理解するのかを尋ねる必要もまだない。必要な問いかけではあるが先に延ばした方がいいだろう。ここでの問題は、空間という形式が我々の実在を不可能にするだろうか、その存在は絶対と両立不可能なものだろうか、ということにある。こうした疑問は、私の判断では、ほとんど議論する必要はない。

 

*1

 

 もし我々が空間的形式が発達における一段階であり、それゆえ二次的なものだと証明できるとしても、ほとんど我々の助けにはならないだろう。証明は、いかなる場合にも存在する実在を減らすことなどできはしない。せいぜい、発達がより進めば、空間の形式はより高次の知覚のあり方に吸収されることを示すくらいだろう。しかし、ほとんど確実とは言えないことに基づいて議論を進めない方がいい。

 

 空間の本質的な性質に立脚しよう。それは、第一巻で見たように、まったく不整合である。その力を越えた何ものかに到達しようとしている。堅固な自律的存在を見いだし、それを維持しようとするが、この努力は内的および外的に無限の過程に分解してしまう。こうした自己の内部に止まっておれない性質は不調和の解決を指し示してもいる。空間は多様性という追徴金なしに個別性が獲得されるより高次の知覚に身を隠そうとしている。※1

 

*2

 

 こうして非空間的な完成に吸収される形で空間が存在する可能性に対して、私は反対する根拠を知らない。もちろん、個々の場合において、どうやって可能なのかについては示すことはできない。しかし、細部における我々の無知は一般的な可能性に対する反論ではない。この可能なる同化は、既に見たように、必然的でもある。

*1:※1第四章を参照のこと。

*2:※1空間は統一をもつのか、もつとしたらどういった意味で、という問題は第二十二章で論じられよう。この点の議論は時間の場合にも必要とされた。絶対に対する反論が空間の統一に基づいてなされることはほとんどないであろう。