一話一言 21
聖なるものと存在の連続性
犠牲においては、単に裸にするということだけでなく、犠牲者を殺すということ(あるいは犠牲の対象が生きものでなければ、何らかの方法で、この対象を破壊するということ)が行われる。そして犠牲者が死ぬと、この死によって明らかにされた一つの要素を参加者がそれぞれ分ち持つのだ。この要素こそ、宗教史家とともに神聖と名づけることのできるものであろう。神聖とはまさに、荘厳な儀式において、非連続の存在の死に注意を注ぐ人たちの前に明らかにされる、存在の連続性なのである。暴力的な死という事実から、存在の非連続性の解消が導き出される。つまり、存続するところのもの、水を打ったような沈黙のなかで不安な精神が感得するところのものは、犠牲者がそこに送り返された存在の連続性なのである。宗教の荘重さと集団性によって規定された条件のなかで行われる、見世物的な犠牲者の殺害だけが、普段は注意から外らされているものを明らかにすることが可能となるのだ。たとえ子供の頃の体験であっても、私たちが個人的に養い育てた宗教的体験に照らすことができなければ、参加者の存在の最も内奥の面に示現するものを想像することはやはりできまい。こうなると結局のところ、原始時代の犠牲の聖なるものは、本質的に現在の宗教の崇高なるものの類似物である、と信じないわけには行かなくなる。
「原始時代の犠牲」と限定づけることで、俗化を免れようとしている。実際、神聖さは血に落ちて、凡俗な猟奇趣味の正当化として使われてしまいそうだから。