ブラッドリー『仮象と実在』 117

      ... [実在の直接的経験としての感じ。]

 

 「これ」と「私のもの」は直接的な感じをあらわし、有限な存在におけるこうした性格のあらわれである。感じは、関係が発達する以前の心的段階をあらわし、或は一般的に、間接的ではない経験を指すのに用いられる(第九章、二十六章、二十七章)。いかなる時にも、我々が受け取り、見いだし、存在するものは、心的な統一を形づくる。すべてが一緒になった集合として経験され、共存するものの関係として分けられ結びつけられたものとして知覚されるわけではない。ある瞬間の魂に存在するあらゆる関係、区別、観念的対象すべてが含まれている。特殊なこれ、排他的に述語づけられた内容が含まれているのではなく、あるがままの、心的な「これ」として性質づけられる直接的なものが含まれている。我々が注意を向ける共存のどの部分も一つの感じとして統合されたものと見られる。

 

 かくして、直接に経験されたものはなんであっても――別な方法で分けられるのではない限り――「これ」であり「私のもの」である。こうした現前はすべて疑いなく特殊な実在を有している。論理的にそれを超越するのは不可能であり、「これ-私のもの」の多数性へと合理的に向かう道筋など存在しないと主張できよう。しかし、そうした多数性を我々はたったいま認めたところである。しかしながら、「これ」がより高次の実在の感覚、全面的に欺瞞的で誤りとはとても言えない感覚をもたらすことは明らかである。というのも、我々のすべての知識は、第一に、「これ」から生じるからである。我々の経験の源泉であり、世界のあらゆる要素はそれを通らなければならない。第二に、「これ」は究極的実在の真の特徴をもっている。いかに完成には遠く、不整合であっても、個物としての性格をもっている。「これ」は我々にとっての実在であり、それ以外に実在は存在しない。

 

 実在とは内容と存在との分裂がなく、「これ」と「なに」とが遊離していないものである。つまり、実在はそれがあらわすものを意味し、それが意味するものをあらわしている。「これ」は、ある意味、その性格と同じ全体性をもっている。「これ」と実在は両者とも、直接的だと言える。しかし、実在は媒介するものを含み、それを超越しているために直接的である。実在は発展し、それが含む相違に統一をもたらす。他方において、「これ」は区別以下のレベルにあるために直接的である。その要素は隣り合っているだけで、結びつけられてはいない。それゆえ、その内容は不安定で、本質的にばらばらになる傾向があり、その本性によって「これ」の存在から越えていかなければならない。しかし、あらゆる「これ」は分割されない単一性という一側面を示している。心的な背景においては、特に、こうした融合した統一は恒常的なものとして止まっており、決して消散することはない(第九章、十章、二十七章)。こうした壊れることのない全体性が個別の実在についての感覚を与える。単なる観念から感覚へと向かうとき、我々は「これ」において新鮮さと生命のあらわれを経験する。こうしたあらわれは、誤解によるのでなければ、決してまったくの非真実ではない。※1

 

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 いまのところ、我々は「これ」を直接経験の実際の感じととることができる。この意味では、一般的でも特殊なものでもあるだろう。我々が常に感じている性格であり、また、なんらかの特殊な内容が結びついてもいるだろう。こう理解したとき、「これ」は絶対と両立不可能なものかどうか尋ねてみなければならない。

*1:※1抵抗のうちに実在の一つのあらわれを見いだすことは無思慮に過ぎない。第一に、抵抗は解決されていない矛盾に満ちており、まさしくそうした性格に固定され、それによって成り立っているからである。第二には、感覚的な苦痛や快以上に現実的な経験があり得るだろうか。