ブラッドリー『仮象と実在』 118

      ... [実在についての感じとしてのこれ、事実上断片性を示すこれ。]

 

 こうした疑問は、僅かな議論しか要しないかに思われる。絶対は全体的なものであり、直接的な実在の感覚は確かにその性質をなすと仮定せざるを得ないからである。また、「これ」の個別の意味に移ったとしても、なんら難点を見いだすことはない。あらゆる現前において、それぞれの心的要素の混合において、我々は一つの特殊な<与件>の感じを持つ。特殊な感覚されうる全体の存在の感じを持つ。そこで我々は疑いなく事実上の内容、全体のなかに含まれるべき新鮮な要素を見いだす。しかし、そうした内容には、拒否できる、或は排除できるような何ものも存在しない。全体による包含と吸収に抵抗できるような要素は存在しない。

 

 現実にある断片性という事実は説明できないことを私は認める。経験がある特定の中心をもち、有限の「これ性」という形を取るべきだということは、最終的には説明のできないことである(第二十六章)。しかし、説明できないことと、両立不可能なこととは同じことではない。事実上あるとされるこうした断片性においては、私は我々の見解に対するなんの反論も見いださない。現前の多数性は事実であり、それゆえ我々の絶対に差異をもたらす。そこに存在し、それゆえ、全体を性質づけるに違いない。そうした分割と多様性によって、宇宙はより豊かなものになることは間違いない。確かに、詳細において分離がどのように克服されるのか我々にはわからないし、各々の場合においてその解決によってもたらされる結果を指摘することはできない。しかし、我々の無知は合理的な反論の根拠になるものではない。我々の原理は、絶対が分割よりも優れており、なんらかの仕方で、分割によって完璧になることを保証している。この帰結が可能であるかどうか疑うにたる根拠を我々はいまだ見いだしていない。どの側面から見ても絶対に没し去らないようなものをなんら発見していない。他のものと混じり合わず、より高次の統一に溶け込むことをためらうような要素は存在しないのである。

 

 もし全体が単なる観念の配列であり、まったく知的な体系なら、事情は変わるかもしれない。我々は観念を結びつけることができ、どれだけうまく結びついているかは関係なくなるだろう。しかし、「これ」から直接に伝えられ感じ取られる産物を作りあげることもできず、もつこともなくなるだろう。私はこのことを認め、それが我々の説を再び確認し、支えになるものだと主張する。絶対は単なる知的体系ではないからである。それはあらゆる一面性を乗り越える経験であり、同時に直感であり、感じであり、意志でもある。もしそうなら、「これ」に対立することは無意味になる。感じは、それぞれが独自の性質をもち、一緒になり、絶対において融合することができるからである。不可能の解決としては、それがもっとも自然で容易であるように私には思える。部分的な経験が一緒になり、結びついてより豊かな全体を生みだす――そこになにか信じられないことがあるだろうか。実際のある感じが頑強に抵抗を示し、堅固なもので、吸収に逆らって突出しているというほうが奇妙ではないだろうか。というのも、その性質は明らかに異なったものであり、絶対の経験のなかに混入されるべきものだからである。こうして達成されたものは明らかに実在であり、というのも、我々の原則に従えば必然的であり、再び、それが可能であることを疑う根拠がないからである。充分述べたので、「これ」の肯定的な面は終わりにしよう。