一話一言 23

 

 

裸形の笑い

 

 私の経てきた道程を一瞥してみよう。————あれから十五年になる(いや、もう少し古い話かもしれない)。私は夜おそく、どこかから帰るところだった。レンヌ通りには人影はなかった。サン・ジェルマン大通りの方から来て、私はフール通り(郵便局側)を横切った。私は片手に雨傘を開いて差していたが、雨は降っていなかったと思う。(私は飲んではいなかった。嘘ではない、私には確信がある。)私は必要もないのに傘を開いていたのだ(でなければ、もっとあとで述べるような必要があってのことだった)。当時、私はひどく若くて、混沌としていて、無意味な陶酔にかぶれていた。まったく当を得ない、目くるめくような、それでいてすでに気苦労と過酷さをいっぱいに詰めこんだ思想、身心を責めさいなむ思想が輪舞を踊っていたものだった。・・・・・・この理性の難破の中に、不安が、孤絶した失墜が、怯懦が、劣等性が、わがもの顔におさまり返っていた。しばらく以前のお祭り気分がまた始まっていたのだ。たしかなのは、あの気楽さが、同時にあの角立った「不可能」が、私の頭の中に爆発したということである。おびただしい笑いをちりばめた空間が私の前にその暗黒の淵を開いた。フール通りを横切りつつ、私はこの「虚無」の中で、突如として未知の存在となった・・・・・・私は私を閉じこめていた灰色の壁を否認し、ある種の法悦状態に突入していった。私は神のように笑っていた。傘が私の頭に落ちかかってきて私を包んだ(私は故意にこの黒い屍衣をかぶったのだ)。かつてなんぴとも笑ったことのない笑いを私は笑い、いっさいの事物の底の底が口をあけ、裸形にされ、私はまるで死人のようであった。

 かねがね思うのだが、バタイユの笑いはヘンリー・ミラーのものと近しい。ミラーは神という言葉は出さず、より汎神論的であろうけれども。