ブラッドリー『仮象と実在』 119

   ... [これの否定的な面。自らを超越する。]

 

 「これ」と「私のもの」が否定的なものと取れることも明らかである。あるやり方で絶対に対立しており、ある意味相反する性格をもっていると考えられる。ある部分、排他的な性格をもっていることは否定できない。問題はどういった意味で、どれだけもっているかということにある。というのも、反発が相対的なもので、全体に収まるものなら、宇宙についての我々の見方と両立可能だからである。

 

 事実としてある直接の経験は、その限りにおいては排他的なものではない。それはあるがままのものであり、なにを排除するわけでもない。しかし、「これ」が否定的な意味合いでも使われることがあるのは確かである。あれとも他のなにとも違う「これ」が意味されることもある。明らかにそれは排他的な側面を示しており、外的で否定的な関係を含んでいる。しかし、そうした関係はすべて、既に示したように、不整合である(第三章)。というのも、そうした関係は内部に存在する、包括的な統一であり、その全体性を離れては関係もその項も何ものでもないからである。関係もまた各項の内的存在にまで食い込んでいなければならない。別の言葉で言えば、「これ」は、その排除において自分自身を失わない限り、「あれ」を排除することは<ない>であろう。こうして、他者の排除は自らを含んだ単一性とは両立せず、すべてを包含する全体への従属を含んでいる。しかし、究極的な全体では、対立するもの、或は関係するものさえ存在できないのである。

 

 「これ」の自己超越的な性質は、どこから見ても公然としており、見やすい。別の側面からいうと、直接的なものはそれ自体と一貫しない内容をもち、自身を越えたものを指し示している。「これ」の内的な性質はより高次の全体性へ向かっている。その否定的側面はこの一般的な傾向の一つのあらわれでしかない。排他性そのものが自身を越えたものを指し示しており、絶対への必然的な吸収を証明するものでしかない。※1

 

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*1:※1上記の結論は、特に、実在に出会う点を意味する「これ」に当てはまる。あらゆる接触は必然的に統一を含み、統一において、それを通じて起き、私の自己と実在はここでは単なる部分的な現象に過ぎない。「私のもの」は、まさしくその限りにおいて、私の経験の単なる一要因にならない限りは、決して「私のものではない」ものとしてあらわれはしないだろう。私は、「これ」によって与えられる実在の感覚の真の意味について語ったのである。