ブラッドリー『仮象と実在』 121

      ... [これに内容以上のものが存在するか。]

 

 我々は「これ」が排他的で、相関的であり、その関係において独立を失うことを見いだした。また、現実においては、「これ」が全く排他的でないことを見た。「これ」は常に不整合であるが、排除し、既に内的に崩壊し始めている限りにおいてである。我々はいま、幾分有利に、問題を異なったやり方で考えることができる。「これ」のなかにはある内容が取り除けることなく固着している、或は「これ」のなかには内容ではないなにかが存在するという漠然とした考えがあるように思える。どちらの場合にも、ある要素が与えられ、それが全体には吸収されないと考えられている。こうした偏見を調べてみることで、我々の一般的な見解に幾許かの光を投げかけられるかもしれない。

 

 「これ」には、始めは内容以上のものが存在しているように思われる。というのも、諸性質を無限に結びつけても我々は「これ」に達することができないように思われるからである。同じ難点は、その解決を目指す方法においても述べられるだろう。一方において、「これ」は内容を除いては何ものでもなく、他方において「これ」はまったく内容ではないとされる。「内容」という言葉にある曖昧さがあるからである。それはそのものが「なに」であるかを意味することもあれば、「これ」と区別されるような何ものでもないともされる。そして、既に見たように、「これ」には不整合な側面がある。ある面からすれば、それは直接的で分割されない経験であり、「これ」と「なに」とが一つに感じられる全体である。ここで、区別を含んだ内容は「これ」には含まれないことになろう。しかし、これもまた既に見たように、そうした分割されない感じは実定的な経験である。それは絶対による同化に抵抗しようとはしない。

 

 他方において、もし我々が内容を一般的に用い、「これ」と区別されることのない「なに」の意味で用いるなら――経験され、経験以外の何ものでもないなにかを意味するものととるなら――断固として、「これ」は内容以外の何ものでもないことになる。というのも、経験以上のものとなりうるような何ものもそこに、或はそれに関して存在しないからである。また性質となり得ないようなどんな特徴も存在しない。その多様な側面は区別と分析によってすべて分離することができ、そのそれぞれが観念的な述語として前景化しうる。この主張は特殊な実在の直接的な感覚を問題にしており、それは複合的と感じられるそれぞれの性格において見いだされたものである。端的に言って、区別の対象となりうるような「これ」の断片は存在しない。それ故、第一に、「これ」は全くの経験である。第二に、それはすべて理解可能である。性質となり、観念的な述語となることを拒むような側面は有していない。(1)

 

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 しかし、ここで自らを偽り、誤りに落ち込むのは容易である。我々は、ある全体、或はどの部分かを選択し、その混乱した共存を区別しばらばらにしはじめるからである。我々が自ら限定した内容と関係による諸性質を自分のものとしているなら、我々はその「これ」を我々の分離による産物と同一視する。「これ」を拒むことにおいて、我々は頑固な排他性をもってそれを攻撃している。それはその本性において不愉快な内容を有しているか、最終的に御せないなにかがあるということになる。しかし、この結論はすべて誤っている。というのも、もし我々が主語になるものをばらばらにしないなら、少なくとももともとはそこにない特徴をつけ加えることになり――その特徴が導入されると、必然的に「これ」は破裂し、内部から破壊されるに違いないからである。既に見たように、「これ」は関係と観念のもとにある統一である。発達しすべての差異を調和することのできる統一は、究極的な実在に達するまで見いだされることはない。それ故、「これ」が我々の提示する述語を嫌うのは、それがその本性を越えているからではなく、むしろ本性に足りないからである。それは我々のなす区別以上ではなく以下だと言える。

 

 原理における間違いに加え、実際における間違いをつけ加えることができるだろう。とうのも、我々は「これ」のすべてを汲み尽すことに失敗し、単に我々の失敗によって残ったものを何ものにも還元できない側面をあらわしたものであると盲目的に仮定するからである。もし我々が「これ」を感じられる全体性の一部に過ぎないとするなら、我々は自らの分析からこの特殊な統一の実定的な側面を除外していることになろう。もしそうなら、我々の分析は明らかに不完全であり、誤った方向を向いている。そのとき、おそらくは再び、排他的な関係によって「これ」を制限することで、我々は本来の内容に一要素をつけ加えていることを自覚していない。我々がつけ加え、見のがしているものは、「これ」の本来の忌避だとされる。しかし、他方において、「これ」が制限されるものではなく、未来や過去との関係を欠いた現在の複合体全体であるべきなら、別の誤りが我々を待ち受けている。というのも、細部は非常に多く完全にそれを汲み尽すことはほとんど不可能だからである。実際には実行不可能なことを行なうことで、我々は再び自らの弱さのために残った残存物を見いだすこととなる。もう一つの錯覚があって、更に我々は誤りに踏み込むこととなろう。我々は自分が研究している感じと我々が現実にもつ感じとを混同する可能性がある。なんらかの(過去の)心的対象の全体をできうる限り組み立てようとするとき、我々は気づかぬうちに現在の我々が感じている特徴をそこに探してしまうかもしれない。そして、我々の失敗を頑固に抵抗する対象のせいにしてしまうかもしれない。(1)

 

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 我々が背景のうちに感じるあらゆる述語の全体的な主語は、一般的に言ってどんな述語でも汲み尽し得ない。主語がすべてを一つにまとめるとしても、述語化は切断を含んでおり、主語における部分的な闘争は統一を喪失することである。それ故、究極的な実在もいかなる「これ」も諸性質から〈成り立つ〉ことはありえない。これが真理の一つの側面だが、真理にはまた別の側面がある。実在は区別することができるようないかなる特徴や側面も有してはおらず、形容詞や述語となりうるようなものも存在しない。同じ結論は、どのような意味にとるにせよ、「これ」についても言える。御しがたい未完成を形成するようなものは存在せず、究極的な実在での性質づけやそれとの合併を拒めるようなものは存在しない。

*1:(1)175ページと『論理学原理』第二章参照。

*2:(1)分析や要素の汲み尽しが困難であることを離れても、我々の現在の観察する姿勢が新たな両立不可能な特徴を形づくっているので、ここでの成功は不可能である。現在の我々の状態にある要素は、(仮定に従って)そのときの状態には欠けている。こうしたことから、感じを観察することは、ある意味常にそれを変更することだといえる。いまの目的では、変更は物質的なものではないかもしれないが、いずれにしろそこにあることになろう。この問題については『論理学原理』65ページの註でも触れた。