ブラッドレー『仮象と実在』 122

      ... [なんらかの内容はこれに付着しているか。]

 

 我々は、ある意味、「これ」が内容ではないこと、及び内容をもっていないことを見いだした。しかし、また別の意味においては、それが他になにも含まず、それ以外の何ものでもないことを見た。ここで第二の偏見を調べることに進める。「これ」が有し、「これ」に固着しているような内容、抵抗を続け、より高次の体系と融合することを拒むような内容が存在するのだろうか。我々が見たところでは、反対に、「これ」はその本質において自己超越的である。しかしこの問題をもう一度考え敷衍することは報われるものがあるかもしれない。そのためには既に得た結論を繰り返すことも躊躇わないようにしよう。

 

 もしどんな内容が「これ」には適切なのかと尋ねられたら、我々はそんなものは存在しないと答えるかもしれない。「これ」や「私のもの」には奪うことができないような内容は存在しない。私が「これ」というときの直接的な感じには複雑な性格があり、既に見たように、内容となる込み入った細部を提示している。しかし、分離できる所有物としての「なにか」はそこにはない。自らの私的な排他性と同一視されるような特徴はない。第一に、原理的には、外部に対して内的なものを性質づけるに違いない否定的な関係である。実際には、内容となる各要素はあらゆるものと関係を持てる。各要素は「これ」の外部にある広い全体に自然に進む傾向がある。その内容は至るところを経巡って安息することがないと言えるかもしれない。単なる「これ」にはなにも割り当てることはできない。