ケネス・バーク『動機の修辞学』 1

【30年以上前、1日のペースづくりとして、2~3ページの翻訳に勤めていた。ときにはそちらに興が移り、それだけで満足し、十分一日の仕事をした気になって、酒を飲み始めるすべてが狂っているような日もあったが、この習慣は15年以上は続いた。以前に紹介したケネス・バークの『恒久性と変化』『歴史への姿勢』、現在続けているブラッドリー『仮象と実在』の翻訳も当時のものである。『動機の修辞学』もまたその当時のものであって、何年か前に翻訳も出たので、あえて恥をさらすこともないのだが、せっかく訳したものなので、発表することにした。訳書は買っていないし、読んでもいない。私は英語を専門にして勉強したわけでもないので、誤訳だらけであろうし、見当違いも相当にあるだろうが、別に直すつもりもない。そもそも引っ越しで原書がどこにあるのかわからないのだ。バークは「動機」をキーワードにしていることによって、20世紀の功利主義者といった軽い扱いを受けることもあるのだが、動機は無根拠なある場所において意味が生じることであり、ある意味、動機の意味が確立していた、つまり、人間性を理解したつもりでいた功利主義者とは全く異なる。形容矛盾である気もするが、武骨なロラン・バルトといった風情もあるが、クリント・イーストウッドを見ればわかるように、荒野にたたずむ者の繊細さもあるものなのだ。というわけで、】

 

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 この本の唯一の難解な部分は、不運なことに冒頭にある。選ばれたテキストは、通常、純粋に詩として扱われるものであり、なぜ修辞的、弁証法的考察もまた必要なのか我々は示そうとした。これらのテキストは殺害の形象を含んでいるが(今日の代表的なテキストがそうであるように)、表面的な部分の背後には、そうした動機とはほとんど関係のない全く異なった領域があることに我々は注目した。殺害の形象は、作家が変化の過程を表現する数多くある用語法のうちの一つに過ぎない。殺害や自殺を選択することに不吉な意味合いを認めながらも、それらがあらわす発達や変容(「再生」)の原理はそうした性質だけに限られるものではないことを示した。

 

 我々の問題は、鍵となる「同一化」という語の分析で明らかになる。徐々に明らかになっていく過程にいらいらするよりは、すぐにそこから始めたいという読者は、冒頭の部分は軽く流し、より一般的な19ページの<同一化>の部分まで進んで欲しい。

 

 それ以後、この語を道具として使い、修辞的な動機が、通常は認められていない、或いは属するとは考えられていない部分にいかにしばしばあらわれるかを示すことで、修辞学の領域を画定しようとする。ある部分、それは、修辞学という言葉が誤って使用され、美学、人類学、精神分析学、社会学といった他の専門分野が前面に出ることによって曖昧になってしまった修辞的要素を再発見しているに過ぎないだろう(他の諸学科はそれぞれの分野で修辞学を引き継ごうとしたが、美学は修辞学を追放し、豊富な修辞的要素を禁止しようとした)。

 

 しかし、こうした再開拓以外にも、伝統的な修辞学の範囲を超えた部分にまで問題を展開しようとしている。完全に計画的とも、完全に無意識とも言えない表現の中間的領域が存在する。それは、目的のない発言と特定の目的をもった言葉の中程にある。例えば、私的な野望と共同体の利益とを同一視する人間は、正当化される部分も、正当化されない部分もあり得る。共同体は個人的な利益を得るための単なる口実かもしれない。或いは、彼はしごく真剣で、そうした同一化のために自ら進んで犠牲になるかもしれない。そこに、完全に意図的とも、完全に無知によるとも分析できない修辞学的領域がある。我々はそれを扱うこととなろう。

 

 伝統的には、修辞学で鍵となる語は、「同一化」ではなく「説得」である。不必要に弱い立場に陣を取るわけではないことを確認するために、いくつかの古典的テキストを再検討し、修辞学の主要な意味合いをすべて追跡した。同一化を用いた我々の考え方で、堅実な伝統的取り組み方に決定的に取って代わろうとしているわけではない。むしろ、我々が示そうとしているように、それは標準的知識の付属物に過ぎない。そして、この著作はどちらの重要性にも通じることを目的としている。

 

 特に、「神秘化」、宮廷作法、階級関係の「魔術」に見いだされる説得に行き当たったとき、ある集団のメンバーがどうやって自ら、そして互いに修辞的に振る舞うことで社会的まとまりを生みだそうとするのか記述するには、明瞭な意図をもった説得を扱う古典的な考え方がうまく当てはまらない理由を読者は見て取ることになろう。W.C.ブルムが手際よくまとめたように、「同一化には献身と隷属の、それどころか共同作業の源がある」。

 

 全体的に見ると、説得はセールスやプロパガンダといった直截的な利益を求めるものから、宮廷作法、社会的エチケット、教育、教訓を通じ、何ら隠された目的のない訴えかけの過程そのものにだけ喜びを思える「純粋な」形式にまで及んでいる。そして、同一化は、農民の聴衆に向って「私も農家の出身です」と言う政治家から、社会的身分の神秘を経由し、神秘家があらゆる存在の源に身を献げて同一化することに及ぶ。

 

 読者は、我々が例を挙げて一歩一歩探求を進めていくごとに、二つの相互に関連する主題が様々な形を取っているのを見て満足されることだろう。我々は概論を書くつもりはなかったので、包括的な歴史的概観に足るだけの領域を扱おうとはしなかった——論争的な修辞を十分に扱うには別の著作が必要だろう(例えば、いま「冷戦」と呼ばれているものにまつわる言語的戦略のような)。

 

 しかし、我々は様々な著作のどの部分が「修辞学教程」として選ばれるべきか、我々の目的に対してどう考えられるべきか示そうとした。修辞的分析が文学テキストや人間関係一般にいかに光りを投げかけるものか示そうとした。常に修辞的技巧に興味を抱きながらも、我々が書こうとしたのは「修辞の哲学」に他ならなかった。

 

 何であれ一冊の著作が、現代人の多くが貪欲にかつ殊勝ぶりながらも飛び込む悪意の奔流に対抗できると自負しているわけではない。しかし、わがジャーナリストたち、政治家たち、そしてなんと聖職者たちの多くでさえもがますます耳障りな音を立てているなか、寛容と観想のための著作が書かれるべきだとますます深く我々は確信しているのである。