ブラッドリー『仮象と実在』 123

     ... [いいや、<我々>の失敗によってそう思われるに過ぎない。]

 

 「これ」は我々の失敗によってのみ内容をもつように見える。それを偶然との関わりで述べることもできるかもしれない。というのも、偶然は与えられたなにものかではあるが、いまだ我々には理解されていないからである。(1)ある要素が観念的な全体との関わりにおいて、その全体の外に出るようなことがあれば、この要素は偶然である。偶発的な事柄とは、いまだ我々が結び合わせ、包含することができないような事柄である。それはなんらかの観念的な全体或は体系に含まれるべきだとわかってはいるが、いまだ含まれていない。かくして、まったく同一の事柄が偶発的でもあれば偶発的ではない。ある体系や目的にとっては偶然だが、別の体系や目的では必然である。あらゆる偶然は相対的である。単なる「これ」にあるような内容は相対的な偶然である。そこに止まっている限り、それは我々の失敗を通じて他と関係をもつ。いまだ理解されていない限りにおいて「これ」なのである。それ自体を越えた全体において捉えられる限りにおいては、その性格を変えねばならない。少なくともこの点においてそれは、直ちに「これ」に関するものではなくなるばかりでなく、全体に位置し、そこにあらわれる。そうした仮象は、勿論、常に我々の外的な感覚に現前しているわけではない。我々が何らかの形で経験するすべてのものは、ある瞬間の現前において経験しなければならない。どれ程観念的なものであろうと、それは「いま」あらわれねばならない。そして、そこに現前するすべてのものは、いかなる点においても観念的な全体に従属していない限り――その全体がいかなるものであろうと――その関係の欠落は与えられたものの部分であるに過ぎない。それをどれだけ理想的なものにしてもよいが、その限りにおいてそれは直接的な事実を越えて進むことに失敗している。こうした要素がいまだ「いま」「私もの」「これ」には染みわたっている。それはそこに止まっているが、既に見たように、所有され割り当てられているものではない。不安定かつ暫定的に漂っていると言えるだろう。

 

*1

 

 しかし、ここで我々は障害に出会うように思える。というのも、所与の事実においては、常に諸要素の共存があるからである。そしてこの共存に我々は「これ」の実定的な内容を帰せるように思える。属性がそれには欠けていると我々は主張したが、この主張はいまでは疑問視できるように思われる。というのも、共存は我々に事実上の知識を与え、まさしく「これ」の内容を与えるように思えるからである。しかしながら、この反論は誤解に基づいているだろう。私がある空間や時間においてある特徴が共存していると判断したときにそれは実定的な知識〈である〉。しかし、他方において、こうした知識は決して単なる「これ」の内容ではない。それは既に一つの総合であり、不完全であることは間違いないが、明らかに観念的である。繰りかえしになるが、この点について簡潔に述べておこう。

 

 (a)第一に、場所や時間は系列内部の包含によって特徴づけられる。ある意味によって、場所や時間は「このもの」であり別のものではないものとして意味づけることができる。しかし、もしそうなら、我々は直ちに所与の超越に向うことになる。我々は全体のなかである要素を包含し、それを越えて他の似たような要素と関係をもつある性格を用いていることになる。勿論、これは直接的経験を遙かに越えている。系列におけるこの位置が単なる「これ」に属しうると想定することは誤解である。(1)

 

*2

 

 (b)よりあり得る反論は、別の事柄を視野に入れている。それは実定的であると主張され「これ」に属しているが、別の瞬間と区別されるようなある瞬間における結合ではない。それはなんらかの「ここ」或はなんらかの「いま」における単なる偶然の一致であり、いかなる「あそこ」や「そのとき」とも関係のない直接的な共同現前である。こうしたむきだしの連結は「これ」によって占有されているようでもあるが、他方において実定的な性格も与えている。しかし、この形においても、反論は間違いに基づいているだろう。

 

 内容のむきだしの同時存在が、現前において与えられるものであり、それを越えたものとなんら関係をもたないと考えるなら、それは諸要素の共存では〈ない〉。勿論、私は全ての感じが実定的ではないと言おうとしているのではない。それがなにを内容とするか述べ始めるや否や、その内容を内容〈として〉扱い始めるや否や、統一された感じを超越すると言っているのである。というのも、「ここ」或は「いま」を考え、そこに含まれるものを観察すれば、即座に観念的な総合を得ることになるからである(第十五章)。いかに不純なものであれ、時間から自由になった関係をもつことになる。そのように進む限り、常に真であり、現在の瞬間には限定されない普遍を得ることになる。この普遍は直ちにその瞬間を越えた実在を性質づけるのに用いられる。例えば、aとbとの共存は単なる「これ」に属するものではなく、観念的であり、そこに「あらわれる」ものだと言える。単なる感じのなかで間違いなく実定的な性格を持っているが、区別を排したただ一つの意味で共に現前しているわけではない。観察において、我々は関係の形式で観察することを余儀なくされる。しかし、そうした内的な関係は「これ」そのものに属しているのではない。というのもその性格は、分離や区別を認めないからである。それ故、この全体のなかで諸要素を区別し、共存の関係を述語とすることは自己矛盾である。この帰結において、我々の操作は働きかけた対象を破壊する。そこから産みだされたものは、そうしたものとしてそこにあらわれることは決してない。かくして、共存の関係と内容の区別をもっていると主張することで、単なる「これ」は自滅する。

 

 もう一つの観点からすると、間違いなく、観察されたものは、より純粋な悟性と比較すると偶然の産物に過ぎない。関係は真実であり、理解されていない混乱した文脈の条件に従っている。それ故、観察されたつながりは、この限りにおいて生の連接であり、単なる共存である。或は、それをより高次の必然性によって測るなら、偶然である。それは我々の無知によって条件づけられた真実であり、偶発的で「これ」に属している。しかし、他方において、我々は「これ」がなにも保持し得ないことを見てきた。関係が成立するや否や、それは普遍的な知識となり、同時に現前を超越する。単なる「これ」の内部ではいかなる関係も可能ではない。内容は、もしそれを区別するとするなら、その限りにおいて統一された感じから解き放たれる。瞬間それだけに本質的に付着するような「なに」は存在しない。要素が感じの混乱に止まっている限り、それは我々の欠落や無知によるものでしかない。それ故、繰り返すが、単なる感じと考えられた「これ」は確かに実定的である。普遍的関係の不在としては、「これ」は否定的でもある。しかし、内容を区別しそれを保持しようとする限り、「これ」は自滅する。

*1:(1)偶然の意味についてのこれ以上の議論は第二十四章で。

*2:(1)上述、及び第二十一章を参照。