ケネス・バーク『動機の修辞学』 2

  修辞の有効範囲

 

.. ミルトンによるサムソンの「利用」

 

 自由意志論者にして国王への反逆者、盲目で不幸の淵にいる老いた詩人が陰鬱で好戦的な詩句でサムソンを褒め称える。表面的には、彼の詩はペリシテ人のなかにいるサムソンを語っている。繋がれた囚われ人は「ガザで眼を失い・・・敵のさなかで盲目」である。なぜなら、彼は「自らの力の秘密」を守ることができなかったから・・・彼自らが彼の「墓所」であり・・・彼自らが彼の「土牢」・・・囚われの上失明したことは「牢獄のなかの牢獄」・・・自分自身に怒らざるを得ないのは、

 

        神の秘密の賜物を

不実な女に

もらしたこと

 

 

「女に沈黙の砦」を明け渡したとき、彼は「肉体への隷属」を大いに嘆く。彼は忍耐について語り、神の名による復讐を口にする。そして、最後に、異境の神殿に連れてこられた彼は「建物を支えている、大きな柱に手を添えて」、「自らの力で」(「自らにふりかかる力!・・・自らを滅ぼすもののなかで・・・」)苦しみのうち行動する。

 

閉じ込められた風と水の力が放たれたかのように

山々が震え、二本の大きな柱が

恐ろしい発作に揺らぎ

倒れるまで彼は引き、揺らした

その屋根は雷の一撃とともに

領主、婦人たち、長たち、参事たちに司祭たち

彼らすべての上に落ちかかる

選ばれし貴族と花々が、近傍のみならず

ペリシテの各地から

この祭を行うために集まっていた

サムソンは、こうした色々な人々とともに

同じ破滅に身をさらすことを避け得なかった

外にいた平民だけが逃れたのである

 

 

この行為、あるいは苦難において、注目に価する変容が生じる。「祭の喧噪に酔い、ワインに酔っていた」敵は、サムソンの神によって破滅をもたらされる。彼らの「内部は盲目であり」、サムソンの「内側の眼は明るく照らされている」。敵は盲目で、サムソンは見者であって、

 

        鷲のように

曇りなきいかずちが放たれる

 

 

対照的に、打ち破られた敵は「飼い馴らされた田舎の鶏」に過ぎない。

 

 二十年以上前、出版の自由に威厳と共鳴と決定的な根拠を与えた『アレオバジティカ』(「許可なくして印刷する自由のためにイギリス議会に訴える演説」)において、似たような鷲への言及の個所がある。

 

 私の心の眼には、気高くも強力な国が、目覚めたたくましい男のように身を起こし、敵するもののない支配を揺り動かしているのを見る。鷲のように力強い鬨の声を上げ、真昼の光線のなかで眩むことのない眼を輝かせ、天のきらめきの源に、解き放たれた計り知れない視線を向けるように思える。臆病で群れをなす鳥たちは黄昏を愛し、彼らに怯え驚き、妬ましげなおしゃべりのなかで異端と分裂の年を予言している。

 

 

 この文章は明らかに修辞的である。特定の聴衆を心に置き、特定の目的のために書かれたものである。これはある<効用>を目的とした文学である。今日では「プロパガンダ」と呼ばれるかもしれない。

 

 だが、詩についてはどうだろうか。ミルトンによって書かれたことを考慮に入れることなしに、ただ<それのみで>読むことは可能だろうか。内的に関連した各部分を一つの構造として研究し理解することが、その内容が避けがたく示唆する照応、つまり、ミルトンの盲目とサムソンの盲目、あるいは詩人の最初の妻との不和とデリラが神の「秘密」を密告したこととの照応を考えることなしに可能だろうか。

 

 神にまで同一化することになる攻撃的で自己破滅的な英雄と著者との個人的な同一化の他にも、党派的な同一化がある。サムソンは言う。

 

        すべての争いは

神とダゴンの間にある。ダゴンは私を屈服させることで

大胆にも神の列に伍し、その神性を

アブラハムの神の前で

比較しようと呈示したのだ。

 

 

相争う神性に基づいて高まる論点は暗示的である。ペリシテ人ダゴンは「ワインに酔い」、イギリスにおいて権力を取り戻した王党派を暗黙のうちにあらわしており、イスラエル人はクロムウェルピューリタン派をあらわしている。この詩で荒れ狂っている正義は単に名人の熟練の技を披瀝したものではない。プロットの必要性に応じてどんな種類の役をもつくりだすことができる多才な劇作家の訓練のようなものではない。

 

 むしろ、ある種の魔術、偶像の敵を打ち倒さんとするけんかっ早い老戦士−聖職者の奇蹟を願う呪文といってもいいものであり、政治的抗争を重大な神学的用語で翻訳する拡大戦略によって自らの頑固で執拗な反抗を押し通そうとしている。盲目の聖書の英雄が<過去において>打ち勝ったと熱意を込めて詩人が言うとき、彼が「実際に」言っているのは、盲目の自分が<将来において>打ち勝つだろうということである。これは道徳的予言であり、ある種の「効用目当ての文学」だが、その効用は紙一重であって、というのも、ここにあるのは科学的精神には効用の正しく反対だと考えられるだろうもの、儀式と魔術に属するものだからである。