一話一言 28

 

 

生きのびるための内在性の絆

 

 私を超越する(私においてそれが空虚だという意味でだ)この諸客体の世界は、私をその超越性の圏内に閉じこめ、ある意味では私自身の外在性の中に閉じこめ、私の内部に外在性の網をあみあげる。こうして私自身の活動性が私を廃棄し、私自身の中に一つの空虚を導き入れ、私はそれに従属させられる。だが私は、次のような内在性の絆を結びつつ、(無限定の、どこにも優位性を許容しようとしない内在性に身をゆだねつつ)この風化作用に耐えて生きのびることができる。

 1) エロチックな絆。私は一人の女を見て、その女を裸にすることによって、活動性につながれた諸客体の気圏から女を救い出すことができる。————陰部とは内在性そのものであって、私たちは一般に諸客体の圏内に呑みこまれ包摂されているのだが、なおセックスによって、無限定の内在性に(断ち切ることのできない、おぞましい、隠された根のごときものによって)つながれはするのである。(セックスは、とはいわぬとしてもエロチックな絆は、たしかにやがては滅び去るべきものである。私たちがそういう絆を結ぶ相手がどのような者であろうとも、万人共通の活動性がその絆を廃して、私たちを従属させる諸客体とのあいだの絆に変えてしまおうとするのだ・・・・・・)

 2) 滑稽の絆。私たちは爆笑の大河の中にさらわれる。笑いは、超越性を帯びた各種の絆の連鎖における亀裂の成果である。私たちと同類者たちとのあいだで、絶えず断たれては結ばれるこの滑稽の絆は、もっとも脆弱な、もっとも重みを欠いたものである。

 3) 血縁の絆。私たちは両親につながれてこの世に生を享け、やがて子供たちにつながれる。

 4) 聖なる絆。これは、私たちを部分として成立している一個の全体の内在性に、私たちをつなぐものである。いやそれ以上だ、一つ一つの内在性関係においてそうであるように、この絆は、無限定の内在性へと私たちをつなぐ(一定集団に限定するということが、そもそも、内在性の絆によって結びあわされる各種の全体の雑種的性格を明らかに示すものである)。それらの全体は、有限の諸客体と同じ形で、超越者となる可能性を持っている(共同体はその成員を超越し、神は信者の魂を超越する。こうしてそれらは活動性の領域の内部に新しいかずかずの空虚を導き入れるのだ)。それらの全体物は、純粋な活動性に取って代り、諸客体の連鎖に従属しつつ自分たちは目的なのだと誇称する。だがそれらは活動性という客観的世界の超越様式にもとづいて抱懐されるものである以上、長いあいだには活動性と見分けのつかぬものとなり、活動性の豪奢な模造品となってしまう。

 5) ロマン派的絆。自然への愛にかかわるもの(野生の、敵意に充ちた、人間と縁のない自然への愛だ)。心情のエロチスムの高揚、ポエジー崇拝、詩的裂け目の崇拝。事物の秩序を犠牲にし、公的、現実的世界を犠牲にしても虚構に価値を与えること。

バタイユの本領であるエロティシズムや笑いもあれば、ブランショ的な「あかしえぬ共同体」 もあるが、独特の神秘的な語彙を取り払って言うならば、共感すること、それによって文字通り変身するこそがよりよき生に向けた方途である。