ブラッドリー『仮象と実在』 124

    ... [「単なる私のもの」とはなにか。]

 

 それは「単なる私のもの」についても同じである。我々は道徳、論理、美学の議論において、ある種の細部は「主観的」であり、それ故無関係だという議論を聞くことがある。別の言葉で言えば、こうした細部は「単なる私のもの」である。間違いが起こりうるし、問題そのものが偶発的なものだとも想像できる。(1)快楽のような要素は、「これ-私」とでも言えるものに固有だと想定されるかもしれない。しかし、「私のもの」に属しうるような内容は存在しない。「私のもの」とは単にそこにある心的な要素を統合し、直接的事実として捉えられた私の存在である。感じる瞬間から自由にならない限りにおいて、それは私の内容である。この、或はあの観念的全体に従属するものではないので、単に私の内容である。もし私が道徳的な側面から心的事実を見るなら、その目的とは関係のないいまここにあるものはなんであっても存在するだけのものである。それは所有している観念のあらわれではない。だが、それは何らかの形で存在しているので、単なる「私のもの」における事実として存在している。勿論、同じことは美学、科学、宗教でも起こりうる。ある点においては本質的であり必然的であった同じ細部が、別の観点からすると取るに足らぬものとなるかもしれない。そしてその限りにおいて、単に感じられたもの、単なる所与に落ち込んでしまう。それは存在するが、我々の目的にとっては何ものでもない。

 

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 おそらくこのことは、心理学から見るとより明らかである。一方において、私の存在のいかなる微細な部分もこの科学の領域外に出ることはない。だが、他方において、心理学には単なる「私のもの」が残っている。私がいかなる種類のものであれ、その特殊なつながりを辿るために私に生じた出来事を研究するとき、どんな瞬間の心的な「所与」にも無関係な特徴が含まれている。それは私が実証しようとしている点とは何の関係もない。それ故、共存の事実は偶発的なものであり、偶然によって本質的なものと一緒にある。別の言葉で言えば、それは私の現在の目的において、所与の自己として存在するものであり、それを超越していない。他方において、明らかに、同じ個々の事象は、因果的につながった私の歴史に(少なくとも)何らかの形で関係しているので、本質的で必然的である。同じように、〈あらゆる〉個々の事象は、瞬間を越えたなんらかの目的を持っている。その各々がそこに現われている観念的全体に関係しうる。そしてそれは「これ-私のもの」に属するものとして残されることはない。共存しているものについての最も単純な観察がそれをそこから取り除いてしまうのであり、偶然は我々の失敗や無知との関連を除けばいかなる実定的な内容ももたない。

 

 でたらめだったり、間違った学説によって歪んだものでない限り、いかなる心理学もこうした内容の疎外に気づかざるを得ない。我々の心的生活全体は、「これ」が所有していると主張する属性を無視し、「これ」を超越することによって進んでいる。「あれ」と融合した「なに」の特徴を解き放つこと――それを越えた何ものかへの自己言及や操作によって――もしそれを除外するなら、心的運動の主要な源泉を失うことになる。それは所与の観念性、あらわれている性格の所有ではなく、単にそこにあらわれていることである。そして連想――誰がそれを「これ」のなかにおける単なる共存として用いることができるだろうか。しかし、もしそれ以上のものなら、それは観念の統一であり、永遠なるものの総合である。かくして「私のもの」にはそれを越えたつながりをもたないような細部は存在しない。偶然の一致はそれを観察するとき、普遍的観念を伴う区別を得る。つまり、「私のもの」には我々の無能力によって残るものを除けばなんの内容もない。言い換えると、この点においてその性格は否定的なものに過ぎない。

 

 それ故、我々の絶対に反論してそうした性格を主張しても無意味である。それは体系における我々の無知を確かな根拠のある反論に代えようとするものであり、我々の失敗を可能性を否定する根拠にしようとするものだろう。我々はあらゆる内容が絶対において調和をもって集まることを疑うような根拠をもっていない。我々は「これ」に固着する特徴があり、それを超越することができないと考える根拠をもっていない。我々にとって真実なのは、様々な体系の不完全な多様性、同じ特徴が数多くの観念的な全体へと混乱するほど関係していること、そしてこれまで述べてきたような実定的で特殊な感じ――これらすべての細部が我々の証明できるような仕方で一つになっていないことである。我々の知る限りすべては調和しているが、ここにどのようにしてかは我々から隠されている。しかし、この結論はそうあるべきであり、なにもそれに反対するものは存在しないのであるから、そうであることを我々は信じている。




 我々は一方において「これ」には内容以外の要素が存在しないことを、他方において、いかなる内容も「これ」を所有していないことを見てきた。なにもその限られた範囲に固着するものはなく、すべてがそれを越えて関係しようとする。そこに残っているのは偶然、我々の単なる無知という意味での偶然である。それは観念の主張に反対するものではなく、空白のまま残された失敗である。(1)いずれにしても、対立や排除は「これ」を超越せねばならない。というのも、その本質は常にそれ自身を越えたなにかへの関係を含んでいるからである。そして、その関係は一様な単一性へ向うあらゆる試みを終わりにする。かくして、もし偶然が観念との現実的な関係を含んでいるととられるにしても、「これ」は、既にその限りにおいて自らを超越している。自身と観念とつながるなにかを拒むのは実定的な事実である。しかし、この拒否は、関係としては、明らかに「これ」に含まれるものでもその内容でもない。他方、この関係にはいることで、内的な内容がその限りで自由になる。それは既にして「これ」を超越し、普遍となる。同じようなやり方で「これ」の排他性を主張することは自己矛盾に陥る。

 

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 単なる「これ」がある意味実定的であることを我々は以前に認めた。それは個別で特殊な自己肯定の感じであり、最終的には我々もこの実定的存在の本性へと入った。しかし、我々はこうした感じが、どんな特徴や側面から考えられるとしても、自己中心的で超然とした位置を保つ根拠がなにもないことを見いだした。少なくとも、それらすべては互いに混じり合い、一つの実在の経験に融合すると言えるように思われた。あらゆる側面からこうした可能性を考え、我々は結論に到達した。「これ」や「私のもの」はいまでは我々の絶対の要素としてそのなかに吸収されている。こうした解決はそうあらねばならず、そうなりうるものであり、確かに〈現実も〉そうなのである。

*1:(1)或は、明確な観念がないときには、我々は「各個人の個別性」といった言葉で誤魔化そうとするかもしれない。

*2:(1)単なる気づかれなかった失敗や欠如は、なんらかの認可を受けなければ偶然と呼ぶことはできないだろう。いずれにしても、それは「これ」を性質づけるものとは取れない。