ケネス・バーク『動機の修辞学』 3

.. 自殺のモチーフを適正化する

 

 もう一つの帰結をここで記そう。サムソンの行為の<自らに返ってくる>性質がくり返り強調されることで(敵を打ち負かす際の自己破壊的な要素)、間接的に自殺を認めるための仕掛けとなり得ている。だが、ミルトンの宗教は自殺を強く禁じている。怒りとともに生きる不運を余儀なくされ、表だった争いにもはや十分に解き放すことのできない憤りに悩まされていたミルトンは、攻撃的であるとともに内向的だという相反する傾向を象徴化するのに適した姿をサムソンに見いだしていた。ここにもまた、より間接的ではあるが、「効用目当ての文学」があるように思われる。サムソンの役柄を詩的に再現することで、そのような装いや入り組んだ部分がなかったら、もしも単純な形で呈示されていたら認められなかっただろうモチーフを受け容れる口実を与えることができる。劇という口実によって、ミルトンは概念的、分析的に言えば除外しなければならないようなものを招き入れることができたのである。

 

 全体的なモチーフのなかでどれほど僅かであろうと、自殺の要素があれば、劇的関係を大きく変化させるような豊かな文脈が与えられる。だが、複雑性を一つの本質的な脈絡、傾向、「主意」に還元し、この自己言及的な要素を暗黙のうちに決定された主要なモチーフとして、すべての分岐を生み出す原則として分離してしまうと、こうした重要な変更、あるいは適正化は見えなくなってしまう。還元が見落とした適正化は戦略的であり、自殺がただそれだけのものであり、ミルトンのもつ文脈なしにも十分に直接的なテーマとして詩において強調される場合とはまったく異なった動機づけをもつ。そうした詩と比較すると、ミルトンでは、自殺は調理される主題ではなく、材料に振りかけられる少量の調味料に過ぎないのである。

 

 我々は、ミルトンの詩におけるサムソンが、精神分析的な意味における「合理化」として解釈し得ると言いたいわけではない。我々は詩に現れたものについて語っている。例えば、一方はユーモアに富んでいて、他方はユーモアを欠いている二つの発言が、誰かに対する同じような敵意を含んでいることがわかったとしても、その中心に同じ動機をもつものとして扱うことは正当化され得ないだろう。というのも、ユーモアを欠いた発言は殺人を<予告>しているかもしれないし、ユーモアに富んでいる方は殺人の<予告>そのものがしたいのかもしれない。かくして、全体的な文脈でのモチーフの<設定>や変更は、ある場合の敵意をはいといいえくらいの違いのあるまったく別のものにするかもしれない。実際、ユーモアによる適正化を除外して還元することによってのみ、このユーモアに富んだモチーフは意図的殺人にまで導びかれうるのである。いかに「殺人」が形象として描かれているにせよ、この帰結を<ユーモアが>導くことはできない。というのも、この形象は<それがユーモアに富んでいる限りにおいて>、本質的に敵意を緩和するような側面を含んでいるからである。この形象は、その材料がユーモアから被った変更を十分に抽象化し、新たに純粋な形で殺人をあらわすようになったとき始めて殺人を<予告する>ことができる。もちろん、こうした抽象化は、ユーモアの能力にあまりに多くの負荷を掛けるような条件が揃ったときにはいつでも起こりうる。

 

 同じように、ある作品で導入されたモチーフは、文脈がそれを変化させ本来の姿から徹底的に切り離してしまうために、別の作品の文脈においては同じように重要な変容をとげることはないかもしれない。それらの変化の<比率>は動機づけ全体を考えるときに必要であり、その全体を、他のすべての側面がその隠蔽であり「合理化」であるような一つの「主意」には還元するのは誤解でしかない。この意味において、我々はミルトンの詩のモチーフを額面通りに受けとっているのであり、攻撃性も神権政治主義的な用語も、再起的な全体の調理においてのみ意味あるもの考えている。神が存在しようとしなかろうと、神の名のもとに考えられた行為と神なき自然の名のもとに考えられた行為とではその動機に<客観的な>相違が存在する。