ケネス・バーク『動機の修辞学』 4

.. マシュー・アーノルドにおける自己犠牲

 

 例として、マシュー・アーノルドの『エトナ山のエンペドクレス』における自己犠牲の形象と比較してみよう。自分を「豊かな少年たちのなかの孤児」だと考え、「我々は、昼も夜も/自分を重荷に感じている」という不満をもち、内省(「自らに沈潜せよ!」)、断念(「お前には喜びを得る<権利>がない/神々から幸福と静穏の資格を得ていないからには」)、非攻撃的な郷愁(「私を受け入れてくれ、隠してくれ、渇きを癒してくれ、故郷へ帰してくれ!」)、孤独と群衆に疲れ切って(「お前が彼を群衆から守ったとしても・・・誰が彼を彼自身から守るだろう」)、下降へのあこがれ(「我が母なる大地の奇蹟に満ちた胎内へ降りていき・・・」)がある。エンペトクレスは「地球の中心に飛び込む」ことのうちに約束された自由、山々、海、星、空気と彼とを理想的に結びつける自己犠牲を見ており、彼が飛び込む火山は、伝説によれば、「地から生まれ出た息子」であり「先々を考えるゼウス」によって「迫害」されたタイタンが囚われていた場所なのである。

 

 こうした明らかな自殺の形象化と比較すれば、「自己破滅的な」サムソンとのミルトンの同一化に自殺の要素が入っていることなど否定し去るに十分な例となり得る。だが、ここで我々がもう一つの段階を挿入してみると、ものごとはどのように見られるだろうか。アーノルドはこのエンペドクレスの詩を嫌うようになり、その出版を差し止めようとさえした、同じようなモチーフは「ソラブとラスタム」のなかにもあり、そこでは二人の戦士が互いに父と息子であることを知らずに同じ戦場で戦い、息子は父の名を聞き茫然としたところで死に至る傷を受ける。

 

ラスタムは頭を上げ、彼の恐ろしい眼は

まばゆく光り、槍を威嚇するように高く振り

そして叫んだ、<ラスタム!>──ソラブはこの叫びを聞き

そして驚きで怯んだ、一歩後じさり

そして瞬く眼で前方をじっと見つめた

そして彼は当惑し、そして

彼は盾を落し、そして槍が脇に突き通った。

よろめき、ぐらぐらと下がり、地に沈んだ

そしてそのとき、暗闇が散り、風が吹き

そして太陽が輝き始め、すべての雲を

溶かしてしまい、そして二人の兵士が互いを見やる

ラスタムは怪我一つなく立っている

そしてソラブは、傷つき、血だらけで砂の上。

 

 

 互いを確認し、息子の死があった後、噴火口に飛び込むエンペドクレスの自己犠牲の場面と同じような宇宙との一体感がある。だが、ここでは、行動が登場人物から共感を受け入れる自然に(動作主から同じように動機づけられ、行動の新たでより抽象的な秩序である場面に)移されている。川の畔に「ラスタムとその息子だけが残り」、「川は荘重に流れていく」が、その粛々とした様子は多くの行を使って詩で跡づけられていく。

 

        最後に

待ち続けた波のぶつかる音が聞こえ、幅広く

開けた水の故郷は光を反射し、輝かしく

平穏な水面からは新たな星々が

生れ、アラル海を照らしている。

 

 

 ここで、父親に殺された息子は、川が海へ流れ込むことを通じて、代理として普遍的な故郷に入る。そして、息子の犠牲のおかげで、兵士たちには平和が戻る。

 

 マシュー・アーノルドの父親との関係は、これら二つの詩における自己抹殺の形象化の文学外での「利用」を示唆している。多くの違いにもかかわらず、両者は同じ詩的動作主の行為であり、一人の作家の共通の課題を分け合っている。そして、両者は生に対する同一の態度の二側面と見ることができる。実際、両者を並べてみると、その可能性に気がつく。アーノルドがエンペドクレスという人物に詩的同一化ができたのは、彼の父親の権威への敬虔な服従が自己抹殺の形象化によって適切に表現することができたし、それがエンペドクレスの宇宙的に動機づけられた絶望と釣り合っていたからである。そして、この自己放棄の態度は、彼の父親に対する態度と同じ動機づけをもっているので、息子が「無意識のうちに」、父親の<ために>殺されるという形象化のうちにより正確な表現を見いだすことができたのである。

 

 この観点から見ると、「ソラブとラスタム」の「主意」は「エトナ山のエンペドクレス」と同程度に「自殺」であるのかもしれないが、「エトナ山」ではそれが<明示的>である。「ソラブとラスタム」ではそれが「言外のうちに含まれて」おり、父と息子との闘いをめぐる戦争の状況が、息子の父親への死に至る賞賛の「つじつまを合わせ」、「圧縮して」いる。詩人は、どちらの場合も、自分が同一化する人物が<殺される>ことを想像している。そして、どちらの場合も、破壊は、故郷に帰る、多分は母的な源に戻るという形象において止む。