ケネス・バーク『動機の修辞学』 7

 

.. 本質との劇的、哲学的関係

 

 能動的、再帰的、受動的な死(殺す、自殺する、殺される)についての形象は、死についての思想が人間の動機づけに基本的なものであるために劇的緊張を高める働きをすることは明らかで、通常はその使用方についてこれ以上考えることはない。しかし、そうした形象の背後にはまた究極的な「文法的」誘因があって、というのも物語の<目的>とはその<本質>や<本性>を明らかにする形式であり、結果だけによって悲劇と喜劇を区別することも、最後の行動の最後の数瞬間を変えることで「悲劇」を「喜劇」に変えることもあるだろう。

 

 様々な場所で(特に『動機の文法』の「本質の時間化」New York:Prentice-Hall,1945,pp.430-440)我々は論理的優先性と時間的先行性について論じてきたが、ものごとの本質についての<論理的>観念は事物の源泉や始まりに関する言明によって時間的、あるいは説話的なものに翻訳されうる(ある人間のアイデンティティーを家族によって確定しようとする封建的な考え方がそれで、その逆説は、人間の<人格>を攻撃する罵りに「私生児」を使うところまで行きつくだろう)。しかし、究極的な<始まり>が存在し、神学的、形而上学的体系が人間の本質が神を親にもつこと、あるいは自然の土壌から発生したと言うなら、究極的な<終り>もまた存在し、ものごとの本質はその<実現>や<達成>によって説話的に定義されうる。かくして、「生まれついての犯罪者」と言う代わりに「絞首刑で終わるような男だ」と言えば、人間の非時間的な本質を時間的用語を用いてあらわしたことになる。

 

 形而上学的に言えば、この形式原理の十全な表現はアリストテレスのエンテレケイアで、事物をその種類のものが取りうる完成状態(つまり、終了形)を考えることで分類する。例えば、人間が「理性的な動物」だというのは、人間が非合理的な動機から免れているという意味ではなく、人間の完成が理性による秩序にあるということである(そうした秩序や終了形はロゴスや言葉を使うことのできない事物には適用されないだろう)。

 

 こうした考えはおそらくそれ自体説話の関係を「非時間的」に翻訳したものだろう(ホメロスの行為とイメージによる本質化が、明らかに哲学のより高次の普遍性に変化させられている)。しかし、一度こうした抽象的な固定化が完成すると(この「固定化」とは、運動の「法則」や「原理」が十分抽象的に述べられれば、それ自体は運動しないようなものである)、我々は問題を様々な方向から見ることができる。かくして、哲学的表現は先行する説話的表現を翻訳したものだが、説話的表現を哲学的表現の翻訳と見なすこともできる。こうした逆転によって発見できるのは、死の形象はアリストテレス的エンテレケイアの説話的等価物たり得るということである。というのも、詩人は、あるモチーフの本質を、いかにそのモチーフが<終わる>かを示すことで説話的にあるいは劇的に(<物語>によって)定義できるからである。あるモチーフの成熟や実現、その「完成」や「終了」が悲劇的結末に翻訳されるとすると、このモチーフはその行為がちょうど<死>に導かれるような説話上の人物に体現される必要があろう。その成果によって、我々はそれを判断すべきである。この点からすると、キリスト教が「死に向けての生」を命じるのは、アリストテレスのエンテレケイアをその悲劇的等価物に翻訳する手法である。思弁的及び悲劇的表現の双方において、共通する文法的原理があり、それは本質を<終り>によって定義することである(<完成>は同時に<死>の印であり、目的への到達はその目的に達するための努力の死をあらわす)。「定義する」、「決定する」、「終結」といった語の間の関係も同様の曖昧さと転換の可能性を示唆している。リヒャルト・シュトラウスの音楽詩『死と変容』にヒントがあって、あるモチーフを悲劇的に荘厳なものとするのは死を変容<として>とらえることによる。

 

 要約しよう。『文法』で「本質の時間化」を考えたとき、我々は「先行する、優先するという二つの意味をもつprior」という語の示唆によって手がかりとともに混乱の種も与えられた。この前例で我々が見たのは、「論理的」優先性の探求が時間的、あるいは説話的関係に翻訳されると、それは「子供時代への退行」、あるいはその類の過去の形象や想念への退行として表現しうるということである。<起源>(由来)との関わりで本質を語ることで、まさにその正反対の方法、本質を<成就>(「それはいかに終わるのか」という説話に関する考えは、「その議論はどこに落ち着くのか」という論理的で還元的な考えに利用できる)との関わりで語ることを見過ごしてしまう。どちらの選択(由来か最終点か)にしろ、説話は本質を<擬人化する>手段を与える。同じような道筋に従って、成人になっての病気の形象は(例えばマンの『トリスタン』と『魔の山』における結核療養所の使い方)本質の説話化において、自己同定作業の「退行的」原理と「成就に基づく」原理とを結び合わせることに利用できる。というのも、大人の患者は、常に看護され世話を焼かれることで子供の「以前」にさかのぼり、同時にすべてを終わらせる死の悲劇的な印のもとにあるからである。