ケネス・バーク『動機の修辞学』 9

.. 要約

 

 第一に、我々は神に同一化するサムソン、それに同一化するミルトンについて記した。それから、王党派のペリシテ人との、ピューリタンイスラエル人との同一化がある。次に、そうした同一化を用いた詩を書くことで、現実のミルトンが市民として不満を感じていることを、儀式的に打破する機会を得たことを記した。

 

 次に、サムソンの行為の再帰的な性質が自殺にまで至るのを理解することで、このモチーフへの劇的同一化が他の重要な要素を含んでいることを記した。こうした考えは、動機づけの調合における<割合>を考慮に入れるよう促した。単に全体を自殺という「主意」に還元することはできないし、動機づけを一つの全体として扱うのは正当ではない。この点は、『サムソン』とマシュー・アーノルドの自己犠牲の形象を比較することでより明らかになった。ミルトンでは聖戦の様相を取っていたものが、アーノルドでは対照的にペイターやワイルドに近しい様相になっていることを言った。

 

 そして、殺人と自殺とを交換可能なものとするコールリッジの詩句を引用することで、我々は形象を越え、変容一般の主題へと赴いた。そして、生と死のように、変容の主題を配する、あるいは劇化する助けとなるような対のイメージの一覧を呈示した。そして、殺すこと、殺されること、自ら死ぬことはいずれも変容の同じ原理を位置づけることだと記した。

 

 しかしながら、殺害の形象が特に適切な場合がある。ものごとの<終り>を描くことは、その<本質>と結びつく劇的方法である。この文法的「死観」は、アリストテレスの「エンテレケイア」に見られるものごとの「最終形」と説話によって結びつくことである。

 

 余談ではあるが、例証となる空想として、パーソナリティ・タイプを世界の終りによって定義し、ある人間が最も容易に自らを結びつけることのできる「終末論的」形象によってタイプ分けすることを提案した。

 

 結局、我々は相反する二つの目的を引受けていることになろう。まず、冒頭の逸話で幅をきかせている殺害の形象を越える道を見いだすことがある。同時に、我々は形象そのもののもつ重要性、第一に動機づけの配合を特徴づけるために必要なものとして、第二に読者に与える修辞的影響力をもつものとして、それを無視することはしたくない。