ブラッドリー『仮象と実在』 133
...[もしそうなら、過去と未来の自己で我々は止まれるだろうか、あるいは、他の魂とも関係を結ばねばならないだろうか。]
(b)もしこの経験を直接的ではあるが、私の自己だけの実在を証明するものではないとするなら、我々はこの経験を既に見ている。直接的経験は「これ」に限定されるものだが、「これ」は「私のもの」として顕著なわけではないし、況んやそれを「自己」と言い換えても同じことである。第二に、我々は実在がそうした経験を越えて広がることを見て取る。ここで、もう一度、独我論は好機を見いだすと思われるかもしれない。瞬間を越える実在は、自己の手前で止ると論じられるかもしれない。超越の過程は、あらゆる直接的経験を包含する「私」へと我々を導くことは認められていい。そして、独我論は、この過程がそれ以上先へは進まないと論じるのである。この道筋には、自己の多数性へと向う道もなければ、私の私的な人格を越えた実在への道もないと論じることになろう。しかしながら、我々はこの語論は独断的かつ馬鹿げたものであることを見いだす。というのも、もし現前を越えた自己を信じる権利を持つというなら、他の自己の存在を主張する同様の権利もあるはずだからである。
我々が正確にはどのように、他の生物の存在という観念にたどり着くのかを論じようとは思わない。形而上学は観念の起源に直接的な関心をもつものではなく、その仕事はもっぱらそれが真であるという主張を検証してみることにある。そして、もしこの世界には私自身のほかに他の自己が存在するという私の信念を正当化するよう求められたとしたら、答えはこうなるに違いない。私は他の身体によって他の魂に達するので、議論は私自身の身体という基盤から始まる。私の身体は私の経験において形成されるもののうちの一つである。それは、快と苦痛、そしてまた諸感覚と意志とに、他のものではあり得ぬように、直接的にかつ特殊な形で結びついている。そして、私の身体と同じような集合物が他にあるなら、それらもまた同じような付随物を特性としてもっているに違いない。私の感情や意志ではそうした集合物と調和し得ない。というのも、それらは通常ちぐはぐで、無関心で、しばしば敵愾心を示すことさえあるからである。それらは互いに、また私の身体と衝突する。それゆえ、こうした他の身体は、それぞれに、自らの自己をもっている。これが議論の大要であり、私には実際的な妥当性はもっているように思われる。実際には、以下に見るように、明示というには足りない。第一に、身体の同一性は正確ではなく、様々な程度に完成に達することに失敗している。その上、同一性が完璧だとしても、付加的条件によってその結果は変わってくる。それゆえ、他の魂が物質的に私とは異なった状態にあるなら、それを魂と呼ぶことにためらいを感じることにもなろう。しかし、それでも、厳密な証明とは言えないまでも、十分に通用する議論ではあるだろう。