ケネス・バーク『動機の修辞学』 13
.. 属性の同一化を目指す性質
形而上学的に言えば、ものはその<属性>によって同一視される。修辞学の領域では、こうした同一視は、しばしばその語の最も物質的な意味における属性、つまり経済的な資産、コールリッジが「宗教的瞑想」において語ったものによってなされる。
二つの流れの湧きだす泉
美徳に悪徳、蜜と胆汁。
その後には、
強欲から、奢侈と戦争からは
見事な科学が生じ、科学からは自由が生じる。
典型的な観念論的文学者であるコールリッジは、更に一歩遡って、「想像力」の働きから「属性=資産」が発するとしている。しかし、属性の二つの側面についての考察で現在の我々の目的にとっては十分である。地位や身分が決まるような属性=資産のなかにあるとき、人間は倫理的である。(「強欲」とは場面語である「属性=資産」が行為者の態度、始めに取る行為に翻訳されたものである。)人間の道徳的成長は、属性=資産、所有物の、仕事の、地位や身分の、市民の、世評の、友人関係や愛の属性=資産によって形づくられる。しかし、こうした一連の同一化がそれ自体でいかに倫理的だろうと、同じように同一化をしていく他者との関係は、混乱や不調和になりうる。これは「同一化」を鍵語としてもつ修辞学を考えるとき<一際抜きんでた>問題である。そして、なぜ、資本主義の修辞の研究としてマルクス主義から多大な洞察が期待されるかを我々は見てとる。ヴェブレンもまた、この観点から見ると、修辞学の理論家と考えられる。(修辞学の有効範囲を手早く見てとるには、『社会科学百科事典』の「資産」と「プロパガンダ」の項を続けて読むよりいい方法はない。)
ベンサムが言語を功利的側面から分析した仕事、人間は「物質的関心」を「賞賛によって隠す」という分析は、本質的に修辞的で、属性=資産に関する動機を直接修辞的要因に関わるものと見なしている。実際、明らかに、ある人間を説得して、その利害を自分の目的に一致させるのが修辞であるから、修辞学の内容は動物実験の条件づけのようなもので、人間の動機にも食事の信号に激しく反応する動物のような部分があり、飼われた犬のように、【こすれあう皿の音】に救いを探し求めることがある。しかし、この「動物の修辞学」の教えは、戦争後のヨーロッパにおいて食物を政策の道具に使おうとしたアメリカのように、誤った方向に人を導きうる。この運動には、我々の代表を注意深く「選別」し、できる限り改革の傾向を押しつぶし、アメリカ人の援助を保守的、あるいはむしろ反動的利害にのみ一致させ、実質的に、他国に対する我々の無様な修辞を<保証している>と思われるに十分な悪意が見受けられる。そして、ヘンリー・ウォレスが海外旅行を通じて、自国のためにヨーロッパの一般市民や知識階級の誠実な善意を商売の種にしはじめると、選別がその本来の働きを取り戻す。我々の新聞は、この一つのきっかけで、アメリカ、ヨーロッパの双方の市民にとって、ウォレスが真の代表者ではないことを断固として主張し始める。我々を代表していたのは、恐らく、こすれあった皿の音で、官僚が常に躍起になって掲げる死んだ象のように重いうちしおれた「理想主義」だったのである。おわかりのように、我々はこうした動きには同一化しなかった。新聞は、先の選挙の結果がこうしたことに「大衆的な委任」を与えたのだと主張した。(このことは修正しないでおこう。というのも、反ウォレスのキャンペーンによってウォレスを排除した後のトルーマンの再選の諸状況を見ると、それを「原則として」裏づけるものだからである。)
純粋な同一化においては争いは存在しないだろう。同様に、完全に分離していても争いは生じないので、パンチを応酬するのに必要な第一条件として対立者のコミュニケーションが可能な、両者に共通の場がなければならない。同一化と分裂とを曖昧なままにしておくと、どこで一方が終り、どこで他方がはじまるのか正確には知ることができないことになるが、それが修辞学に特徴的な魅力なのである。なぜ修辞学が、アリストテレスが言うように「反対意見を証明する」ことにあるかの主要な理由がここにある。二人の人間が共同の事業をしていて、それぞれが違った仕事をし、そこから異なる量の異なる種類の利益を得るなら、どこで「共同作業」が終りどこで一方の他方からの「搾取」がはじまるのかきっぱりと言える者がいるだろうか。両者の間で揺れ動く境界は「科学的に」定めることはできない。敵対する修辞家は異なった場所に線を引き、彼らの説得力はそれぞれが駆使することのできる資源によって変わる。(公的な問題では、この資源は語り手とその話術に本来備わった力だけでなく、発言の助けにもなれば妨害にもなるコミュニケーションの純粋に技術的な手段をどれだけ効果的に使えるかにもかかっている。新聞に無視される「良質な」修辞は、明らかに全国的な大見出しの貧弱な修辞に較べて「コミュニケーションの範囲」が狭い。しばしば我々が考えなければならないのは、修辞は特定の誰かではなく、一般的な<同一化集団>に向けられることで、その場合、説得力は、際立った修辞技術よりは些末な繰り返しや退屈に毎日同じことを主張する方が増すのである。)
もし神が称讃され、同時にある特定の物質的所有が支持されるなら、我々は修辞的な考察を強いられることになる。もし科学が賞賛され、いかに高尚なものだろうと、その同じ科学が帝国主義的拡張の手先となるときには、再び問題は修辞学の範囲に入る。というのも、神が世俗的な所有構造と同一視されてしまうし、科学がその目的がまったく<非科学的な>グループや階級の利害と見なされうるからである。かくして、いかに実際の動機が「純粋」であろうと、様々な立場に立つ者の境界周辺での策動は、決してこうと決めることのできない典型的な修辞的もつれ合いを導き入れてしまい、人が礼儀正しく「反対意見を証明」しようとする場合にだけ道徳的論議の領域に属することになる。
かくして、プリーンが、同じ意見の仲間が集まり、科学を称讃したときのことを書いてきたとき、プローンはこう返事を出す。「意識的に除外しているならともかく、あそこにはもう一人いたはずだよ。軍国主義者で帝国主義者のジョン・Qだよ」。プリーンはこう答える、「軍国主義者で帝国主義者のジョン・Qはいまでも敬わなくちゃいけない。科学者のロジャー・Bが生れる前、聖書の時代からいると聞くぜ。表立って閉め出されなければどこにでも入り込んでるんじゃないかな。」相手のもつ属性、本性に従って同一化をするおかげでそれができる。修辞学者とモラリストは、そうした同一化のいまだ見破られていない部分をあらわにしようとする点で一致する。第二次世界大戦後のアメリカでは、科学的研究の多くが軍の統制のもとにあるので、そうした同一化への誘惑が特に強い。そうした反動的な意味合いから離れることなしに科学への称讃を語ることは、怠慢から反動的含意に同一化することである。多くの名望のある教育者たちは、こうした間接的な仕方で「共謀者」として<機能している>。研究所や大学の科学部門に州の補助金を得たいばっかりに、戦争の理念に合った教育方針を指導原理にせざるを得ない。