ブラッドリー『仮象と実在』 136

...[すべてが私の経験であり、また経験ではない。]

 

 簡単にもう一つの誤解について触れておこう。それは古くからの間違いの少し形を変えたものである。私が知るのは私が経験したことだけで、私自身の状態を越えた何ものも経験できないと言われる。それゆえ、私の自己がだけが知りうる実在なのだと論じられる。しかし、この反論にある真実もまた、誤りに侵されている。私の経験するすべてが私の状態であり、私がそれを経験する限りそうであることは真である。絶対でさえ、私の実在であり、私の精神の状態である。しかし、このことは、私の経験が他の側面をもたないことをまず示しはしない。私の精神の状態がそれ以上ではなく、この一視点からのみそれが実在として捉えられねばならないとはまず証明できない。実在は、確かに私の心的存在のなかにあらわれざるを得ない。しかし、それと、その本性すべてをその領域に限定することとはまったく別のことである。

 

  私の思考、感じ、意志は、もちろん、すべて現象である。それらはすべて偶然に起きる出来事である。それらが生じる時々、それらは感じられる「これ」のうちに存在し、そうした偶然の集積のなかの諸要素である。更に、私が推論によって構成する自己-事物の諸状態と取ることもできる。しかし、もしそれを無意識にであれ意識的にであれ、単にそうしたものと見るなら、その性格を不完全なものとしている。必然的であるある視点を用いているが、それは部分的で一面的である。この観点については後により詳細に見ることになろう(第二十三章、二十七章)。ここでは、こうした過程の意味と内容は、心的連続性のあらわれにはないことだけ述べておこう。思考において重要な特徴は、そうした心的状態ではない。同じ真理は、それほど明確ではないが、意志についても確かめられる。私の意志は私のものだが、にもかかわらずそれ以上でもある。意志された観念の内容(問題をそれだけに限定した場合)は、私を越えた何ものかであるかもしれない。その内容が効力を発揮するものであれば、その過程の活動は単に私の状態ではあり得ない。しかし、後に扱う問題をこれ以上先取りするのはよそう。ここでは、一般的に、次のような見解、つまり、もし経験が私のものなら、私が私の状態以外なにも経験しないことに議論の余地はないという考えを捨て去れば十分である。こうした議論はすべて間違った先入見に依存している。私の私的な自己が、全体とは独立した実在する実体として始めに設定されている。そして、経験において強いられる宇宙との明らかな共存が、我々の貧弱な抽象による形容詞にまで貶められる。しかし、そうした先入見があらわになったとき、独我論は消え去る。