ブラッドリー『仮象と実在』 137

...[独我論に含まれる真実。]

 

 ある抽象の神格化だと考えると、独我論はまったく間違っている。しかし、その間違いから我々がときに見落としがちな真実の断片を拾い集めることはできる。まず、第一に、私の経験が全世界そのものではないが、この世界は私の経験においてあらわれ、そのように存在する限り、それは私の精神の状態〈である〉。実在の絶対であろうが神であろうが〈私の〉状態であり、それはしばしば忘れられる真理であり、後に再び立ち返ることになろう。独我論がむやみに証言したがる第二の真理がある。私の実在との接触はある限られた窓を通じて行われる。というのも、私は感じられる「これ」を通じて以外に直接的にそれを得ることはできないし、我々の直接的なやりとりや相互影響はこの小さな窓口を通じて行われる。同じくらい実在的な、それを越えるすべてのものは、我々がこの観点から熱烈に感じ取る共通の本質を拡張したものである。そして、最終的に、宇宙を知るには、我々は個人的な経験と感覚に立ち戻らねばならない。

 

 この二つの真理以外にも、注目するに足るもう一つの真理がある。私の自己は確かに絶対ではないが、それなしでは、絶対は絶対たり得ないだろう。私の個人的な感じをすべて抽象し去ることはできない。ごく瑣末なことであっても切り離してしまえば、宇宙にあるものはもはやあるとおりのものとは言えない。すべての実在と私との、この関係、この本質的つながりを主張することにおいて、独我論は忘れるべきではないことを強調している。まさしくこの真理から導き出される帰結については、後に議論することになろう。(1)

 

*1

*1:(1)第二十七章において、私は、独我論を反駁することで、我々は絶対が経験であるという結論の根拠も失ってしまうのかどうかという問題について扱うことになろう。