ケネス・バーク『動機の修辞学』 16

. キリスト教後の科学における「贖罪」

 

 十字架にかけられたキリストの犠牲によって贖罪の観念を形成した文化で、社会化の諸過程が世俗化されてしまったキリスト教後の科学においてなにが生じているのだろうか。犠牲となった王を祀る司祭の必要は徐々に減じているのだろうか。或は、別の人物あるいは人物たち、個人あるいは団体、実在のあるいは虚構のなにかが贖罪の役割を引き継いでいるのだろうか。おそらく、浄化を儀式的に体現し、象徴的に個人的、集団的罪を担う器をあらゆる人間が求めているわけではない。しかし、近年の歴史の教訓として、我々はヒトラー国家社会主義の軍部がポスト・キリスト教的根拠によって、反ユダヤ主義という聖なる生贄を世俗化した模造品を呈示したことを知っている。そして、ユダヤ人と他の少数派が我々の社会の多くによって魔術的に同一視されたかを知っている。そして、現代世界には、ヒットラーの大量虐殺の「科学」のもとにあったドイツとまったく同じような軍事的、経済的傾向が広く存在することもわかっているので、ある程度は同じような文化的誘因が予想されることは肝に銘じておくべきである。ナチスの歴史が明らかにしているのは、職業上の禁欲を様々に訴える科学者たちが、その専門性に、物質的操作そのものには認められない正当化や社会化を見いだそうと企てることである。自然な生を超越していること、技術上の良心、純粋性の特殊な検証において、臨床の場や実験室はある種の世俗的寺院であり、いかに表面的には隠されていようと、儀式的祈祷がなされる場所である。魔術の痕跡がはっきり認められなくとも、密かに悪魔世界に祈りが捧げられ得る。少なくとも、ヒットラーのドイツの技術専門家はそうだった。科学の理想である「非人称的な」用語が皮肉にもこの災厄に役立つ。生命のない自然を単なる「事物」として扱うことは、動物や敵を単なる事物として扱うことからほんの一歩の距離だからである。しかし、彼らは事物ではなく、人間である——心では真実だと知っていることの体系的な否定には、倒錯した原理があり、多大の不安を生み出し得る。