ブラッドリー『仮象と実在』 139

...[その本質には二律背反が存在する。それは未知のものと未知のものとの関係である。]

 

 二律背反の形でそれを述べることができる。(a)自然は私の身体にとってのみ存在する。しかしまた、他方において、(b)私の身体は自然にとってのみ存在する。

 

 (a)外的世界は私の有機体としての状態としてしか知りえないという論点については、それ以上言う必要はない。その厳密な帰結は、(一般的に受け容れられている見方によれば)あらゆるものは私の脳の状態だということになろう。というのも、(明らかに)経験されうるものすべてがそうだからである。脳の各部位を問題にする更に詳細な議論には踏み込む必要はなかろう。

 

 (b)だが、最も確実なのは、この著作の冒頭でも見たように、私の有機的組織とは、ある物体へのあらわれ以外のなにものでもない。それ自体が自然な対象のありのままの状態に過ぎない。というのも、私の有機的組織とは、他のすべての有機的組織と同じく、経験されたものでしかなく、私は自身の諸器官との関係においてしか私の有機的組織を経験することはできないからである。それゆえ、あらゆる物体はそれらの単なる状態である。お互いがお互いの状態でありそれが無限に続く。

 

 どうしてそれを否定できよう。拡がりがあり、固性もある私の身体とともにある直接的経験に訴えてみても、論破されるべき幻影の世界に避難することになるだけである。そうした特殊な直観がまともな心理学的発見を生みだせはしない。私が経験する内的感じは、その種の発見を与えてくれないことは確かである。また、もし与えてくれたとしても、自然科学にとってそれは直接的現実ではなく、それ自体物質的な神経組織の状態である。想定される抵抗をすべてあらわにして、それを頼りにしてみても、助けとはなり得ぬ所に助けを求めることになるのは明らかである。第一に、そうした暴露は(既に第十章で見たように)虚構である。第二に、抵抗は独立した実在である物体を我々にもたらし得ない。それはあるものと別のものとの関係を与えてくれるだけであり、どちらも抵抗するものとして、異なった存在となるのではなく、分裂するか再び関係を持ち合うしかない。思うに、抵抗はあるものがそれ自体でなにかを我々に伝えることはできない。別のものの状態によって性質づけられたものを与えてくれるのであり、その限りにおいてそれらは我々の知る関係のうちにあるが、それを離れると未知のものとなり、その限りにおいて非実在となる。

 

 これが自然に関して我々が余儀なくされる一般的結論である。物理的世界は物理的事物間の関係である。そしてその関係は、一面においては事物が物理的なものであることを前提とし、他面においては関係から離れるなら、事物が物理的でないのは明らかである。自然は未知のものと未知のものとの現象における関係である。諸項は未知のものであるゆえに、そもそも自らがなんであるか言えないがゆえに、関係しているとさえ言えない。更にこの考えを進めてみよう。

 

 外的世界が私の諸器官のみにあることは避けられないことに思われる。しかし、知られている限りのことを除いて器官とはなんであろうか。器官の状態以外をどうやって知りうるだろうか。物理的対象《である》器官を見いだすよう要求されるなら、それ自体が物体《である》物体以上のものを見いだすことはできない。それぞれ他のなにものかの状態であり、決して状態以上のものではない――そして、《なにかが》我々を逃れさる。また、脳に逃げ場を求めても、同じ結論になるのは明らかである。もし世界が私の脳の状態なら、私の脳そのものはなんであろうか。誰のものか問う必要はないだろうが、誰かの脳の状態でしかない。(1)いずれにしろ、物理的事物の従属物へと還元しなければ、物理的事物として実在ではない。そしてこの錯覚に基づく探求は永遠に続く。それはあなたが見いだすことのできないものへの従属か、関係にしか導くことはあり得ない。

 

*1

 

 この堂々めぐりから抜けだす手段はない。aとbという二重の触覚を例に取ってみよう。aは器官Cの一状態でしかなく、bは器官Dの一状態でしかない。CかDが身体器官として実在だと言いたいなら、EかFという別の器官の証言に頼るしかない。いずれにしろ、実体のある物質的存在に到達することはできない。際限なくある属性から別の属性へとさまよい歩くことにならざるを得ない。また二重知覚で二つの証拠があるからといって、そのどちらもが物体としてあるということを示しはしない。そこから導かれる結論は、どちらの側も我々の知らぬなにものかに依存しているものでしかないということである。

 

 もし共通の経験に訴えてみても、我々は二律背反の《一方の》側の助けさえ得られない。我々有機的組織の存在に、外的対象の存在の場合と同じ証拠を見いだすことは明らかである。身体とともに、我々はある証人をもち、それが同じくらい実在的な環境を与える。というのも、我々はいかなる環境においても、《なんらかの》外的感覚なしにはおれないからである。ごく一般的な意味において、諸器官の証言を受け容れるなら、そして、外的世界が実在でないというなら、我々の器官は実在ではない。どちらも同じ水準で与えられているか、どちらの側もまったくもたないことになろう。一方が実体で、他方が附加物或は従属物として属するというのはまったく理性に反していると思われる。端的に言って、我々は自ら到達した結論を認める。自然も私の身体もそれぞれ自身そしてまたお互いのために必然的に存在する。そして、どちらも、調べてみると、互いとの関係を抜きにしてはなにものでもないことがわかる。どちらの本質にもその出現によって他方に影響を与えないものはない。

*1:(1)私にとって、結局のところ、私自身の脳は私自身の脳の状態でなければならない。263ページ。