ブラッドリー『仮象と実在』 140

...[それはある現象の諸条件の単なる体系であり、相矛盾する抽象物である。]

 

 このことによって、我々には避けられぬ結論がもたらされる。(1)物理世界は一つのあらわれである。それは徹頭徹尾現象である。それは二つの未知のものによる関係であり、未知のものであるゆえに、我々は実際にそれが二つであり、そもそも関係しているのか正当性をもって言えない。不完全な理解があるだけであり、一方が他方を条件とするような、また前提とするような諸性質や諸関係が与えられるだけである。そして、この混乱と困惑が絶対においていかに解決されるか知る手段はない。物質的世界は実在の不完全で、一面的な、自己矛盾的なあらわれであろう。二つの未知なる事物があり、それらが関係するとき、それぞれがそれ自体でなにものかでなければならないが、関係を離れてはなにものでもない。別の言葉で言えば、我々が関係する多様性は、実在ではないが、どのようにしてか十全なものとなり、宇宙に参入し、宇宙の生を完成させる。しかし、どのように参入するかは、我々はなんらいうことができない。

 

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 しかし、この循環的な関連、有機体と自然との基盤のない相互関係は誤りとして無視すべきものではないか。断固としてそうではない、というのも、それは生命の組織であり、現象のなかで起こることの必然的なあり方だからである。それは現象における布置であり、延長は我々が有機体と呼ぶもうひとつの延長との関係においてのみ我々のもとにいたる。触覚、視覚、聴覚といった性質は、他の性質とのある種の関連がなければ感じとることができない。自然は集合的な、継起的または共存の法則による現象としての実在であり、我々にあらわれるある種の断面においてのみ効力をもつ。しかし、それ以上のことを得ようとするなら、出口のない迷路のなかに再び入ることになろう。物理的世界を私の身体に単に付随するものであり、他方において、私の身体もより実体的ではないとすることもできる。それ自体常により遠くに、向こう側にあるなにものかである。そして、第一部で見たように、一次性質を二次性質のない実在ととることもできず、また、二次性質を私の感覚なしに存在するとも言えない。既に見てきたように、これらすべての相違は還元され、絶対的経験のひとつの偉大な全体性のなかで一緒になる。それらは我々の視界のなかでは見失われるが、それらを吸収するもののなかではほぼ確実に生き残る。自然は全体的感覚の一部分に過ぎず、抽象によって分離され、理論的な必然性やもくろみによって拡大される。そして我々はこの断片を自律した存在とする。そして、ときに「科学」とも呼ばれるものは、そうした道筋をたどって甚だしい間違いを犯す。独立した実在の単なるあらわれの諸条件を知的な構築物とするのである。そして、この虚構をしっかりした存在として我々に押しつけることになろう。かくして、単なる誤りが比較的真理に近いものとなる。信用には値しないが、作業的な観点としては成功によって十分に正当化され、批評が及ばない高所におかれる。

 

 このように、単なる自然は実在でないことを我々は見てきた。自然は実在のなかにある仮象に過ぎない。それは絶対的なものの部分的、不完全なあらわれである。物理的世界は抽象であり、ある種の目的に関してのみそれ自体として考察できるが、自らの権利をもって自律しているととると、再び自己矛盾に陥る。ここでは、この一般的な見解を細部にわたって検証しなければならない。

*1:(1)この結論は(読者には思い起こしてもらわねばならないが)この章の記述ばかりでなく、第一部の議論によっている。幾つかの章の表題を振り返るだけで十分だろう。