ブラッドリー『仮象と実在』 141

[すべての自然は拡がりであろうか。267-269]

 

 しかし、先に進む前に、いくつか興味のある点を扱おう。これまで我々は物理的世界を延長として取り扱ってきたが、そうした仮定は正当化されるのかどうかという疑いが生じるかもしれない。拡がりは自然には本質的ではない、と言われるかもしれない。というのも、延長は常に物理的であることを必要とはしないし、物理的なものが常に延長であることもないからである。この点をすぐにでも明瞭にした方がいい。第一に、延長がすべて自然を形づくるものではないことは確かである。というのも、私は好きなだけ拡がりをもつ事物を考えることができ、想像することができ、そうした物理的事実が我々の物理体系のなかに場所を占めることは想定できないからである。だが、他方において、私はどのようにその拡がりを否定できるのかわからない。私の心でひろがっているものは、それが我々が自然と呼ぶものに属していようがいまいが、ひとつの事実であるに違いない。たとえば、よくある感覚の錯覚を取り上げてみよう。そのとき、我々は実際に拡がりの知覚をもっており、それを誤りと呼ぶことはそれが空間的なものでないことを示すわけではない。しかし、もしそうなら、自然と拡がりとは一致しないことになろう。かくして、我々はいたるところで自然に特徴的な本質を、なんらかの非空間的な性格を探らざるを得なくなる。

 

 それだけの原則としてなら、私はこの結論を受けいれることができる。自然の本質は物理的なものの外部にある領域としてあらわれ、(ある部分)物理的なものとは独立した変化を被ったりその原因となる。あるいは、少なくとも、自然は常に直接的に魂に依存しているわけではないに違いない。自然は自己と非自己との区別を前提としている。それは、快楽や苦痛を感じる内的な集まりと経験を同じくする世界の部分である。複数の自己が参加し互いに自らをあらわにする媒体である。しかしそれは、そうした複数の自己には属さない存在や法則を示している。少なくともある範囲では、そうした自己の感情や思考や意志には無関心である。こうした独立性が自然の特徴であるように思われる。

 

 そして、もしそうなら、自然はおそらくは拡がりをもたないということができ、我々はそうした自然が可能であることを認めねばならない。我々は心的なものからは独立してあらわれる諸性質、たとえば音や臭いの一団を想像できる。そうした性質は、我々の観念や好みとはいささかも、あるいは多くは関連をもたず、独自に働くように思われる。そして、そうした秩序は、安定的で永続的な非自己を形づくることによって維持される。また、そうした諸性質の集まりは魂相互の交流の手段の助けとなり、端的に言えば、自然が存在する目的として知られているものすべてに答えることができる。なんらかの事物があり、それらの二次性質が外的な空間に位置づけられるとき、我々はそれを物理的なものと見なす。それゆえ、そうした位置づけそのものが必要なのかという疑問がある。そして、私自身、そうだと了解はできない。たしかに、もしこの種の拡がりをもたない世界を想像しようとすれば、自分の意志に反して私はそれに空間的な性格を与えてしまうことを認める。しかし、私の見る限り、それは単に精神的な欠陥から生じるのだろう。少なくとも私の知識では、拡がりをもたない自然という観念は自己矛盾ではないと思える。

 

 しかし、ここまで行きつくと、私はそれ以上進むことはできない。拡がりを欠いた自然が可能であることは認めるが、私はそれが現実にあるという十分な根拠を発見できない。我々が出会う物理的世界はたしかに空間的だからである。そして、我々はなにか別なものを探りだそうということに関心をもたない。もし我々の見る自然が実在なら、ことは違ってくるだろう。そして、その本質に関してあらゆる疑いを考慮せざるを得なくなる。しかし、我々にとって自然は仮象であり、不整合で真実ではない。それゆえ、拡がりから自由な別の自然を想定することはなんの助けをももたらすことはできない。この想定は、いずれにしろ事実である現実の拡がりから矛盾を取り去ることはない。また、その内部においてさえ、この想定は首尾一貫したものではありえない。それゆえ、我々はこうした単なる可能性に煩わされることなく先へ進むことになろう。あらゆる自然が本質的に拡がりをもたねばならないと結論することはできない。しかし、少なくとも我々の物理世界は拡がりをもっているので、また、別種類の自然を仮定することは関心を引かないので、この観念は棄て去ることができる。これからは、自然を常に空間のかたちであらわれるものととることにしよう。(1)

 

*1

*1:(1)「自然とはなんであるか?」という質問に対し「抵抗」と答えることは十分でないことをつけ加えた方がいいだろう。ある種永続的な観念が「抵抗する」ということのもっとも十全な意味には含まれているかもしれない。しかし、物理世界によって意味される本質がそこに見いだせるだろうか。しかしながら、「抵抗」に関する主張についてはすでに116,225,263ページで論じた。