ケネス・バーク『動機の修辞学』 20

. 修辞と原始魔法

 

 カーディナーの引用は「ナヴァホ族の魔法」についてのC・クルックホーンの論文からとられていて、魔法を修辞学の範囲にもたらすような観察が含まれている。実際、魔法がその背後にもつ個人的な富、権力、復讐へと向かう動機は、<部族的な>思考が最重要である文化で生じる<個人主義>の原始的語彙で、それによって個人主義的な動機が認められ、気づかれるようになったと見られないだろうか。部族的な規範との同一化に違反することは不吉であり、マクベスの個人的野望が魔女の姿をとっている事実の背後にも修辞的動機を見て取ることができないだろうか。

 

 一見するところ、原始魔法についての考察を加えると、修辞学の概念はふくらみすぎて破裂してしまうように思える。しかし、もう一度見てみよう。「修辞学」という<語>が完全に無視され不人気なまさにそのときに、「社会科学」の作家たちは、様々な装いのもとに、新修辞学によい貢献をしていた。現代思想によくあるように、<文化の比較>から得た洞察がこの主題の古典的な研究法に光を投げかけることができた。そして、これもまた現代思想によくあるように、この光は修辞に関する初期の研究との真の関係を隠すものと考えられた。現代の作家は原始魔術に関する人類学者の研究に強い影響を受けているが、人類学者の魔術への関心と文芸批評のコミュニケーションへの関心との厳密な関係を明確に見て取るにはここ数年の<修辞学>を体系的に学ぶ必要があった。この発見に先立って、人類学への渇望を訴えるのはやましさからである。そうした関心は文学研究には関係ないと考える対抗勢力に半ば同意したがっていたのだった。

 

 さて、人類学者の魔術についての考察が修辞学に属しうることを示すには、両者の研究領域が正確にどこで分かれるのかまず見るのがいい。人類学は、修辞学の観点でいかにそれを「斟酌する」かを知ることによってのみ文芸批評の利益になる。皮肉なことに、人類学は、はっきり修辞学として研究<すべき>問題を斟酌せずに、<そのまま>思考に忍び込むことを許してしまうと、文芸批評ばかりではなく、人間関係一般の研究にとって混乱の源となりうる。

 

 人類学者の魔術研究が修辞学と重なる場合と、我々がエルンスト・カッシーラーの『国家の神話』を論評するときのように区別される場合がある。我々に影響を与える一般的命題は次のように言える。

 

 科学と魔術との関係について、典型的な科学者の見方から始めねばならない。現代科学の擁護者の多くは、単純な対立の弁証法に従い、魔術を単なる悪しき科学の初期形式と見なすので、残された問題は悪しき科学と良い科学の区別だけのように思われる。科学的知識は、正確で批判的に検証された現実の記述を与える用語法として提示される。魔術はその正反対である。それ故、魔術は現在科学が行っていることの、初期における無批判的な試みであり、そこでは判断と知覚が、非人称的な自然の力が個人の企てに左右されるという愚直な擬人的信念によって損なわれている。かくして、科学的記述の文明化された言葉と魔術的呪文の野蛮な言葉とのにべもない選択が迫られる。

 

 この図式において、「修辞学」はなんら体系的な位置づけをされていない。この語がカッシーラーの『国家の神話』にあたわれるのは一度だけであり、そのときも無作為に使われている。だが、この本の真に対象は、多かれ少なかれ、修辞学にもっとも特徴的に関わるもの以外ではない。つまり、政治的目的のための人間の信念の操作である。

 

 さて、修辞の基本的働き、言葉を使って人間にある態度をとらせたり、行動を誘導することは、確かに「魔術的」ではない。あなたがなにか困難に陥り、助けを呼んだとしても、原始魔術の実行者だというわけではない。人間の会話能力の基本的財産をまったく現実的に用いているだけである。他方、助けを呼ぶ言葉は、人の希望や好みは無視して、「非人称的」観点から自然の諸条件を図式化する「意味論的」、「記述的」な用語を用いた、今日言われる厳密な意味での「科学」でもない。助けを求める声はまったく「偏って」いる。この上なく「願望充足」的である。単に記述的ではなく、<勧告>が含まれる。「場面」に限定し、事態がどうなっているかを語ろうとするものではない。<人を動かそう>としている。もちろん、助けを呼ぶ声には、困った人間が直面している危険や助けてくれた場合の利益についての情報が、科学的な言明や行動への用意として含まれるかもしれない。しかし、呼びかけそれ自体は科学的ではなく、<修辞的>である。詩的言語がそれ自身のための、それ自身におけるある種の象徴的行動なら、科学的行動は行動への用意であり、修辞的言語は行動(あるいは姿勢、行動を始める姿勢)への勧誘である。

 

 魔術か科学かの選択しかないなら、こうした表現形式を正確に分類する場所などないことになろう。「未来」は顕微鏡に据えられるようなものではないし、過去の<正確に同じ状況>の知識で検証するわけにもいかないとすると、政治的な勧告に従うときには、必然的に厳密な科学的な記述を越えた決断に巻き込まれる。そして、影響力のある政治家が「雄弁」であるなら、消去法によって、政治的目的のために演説を用いて勧誘することは語の悪い意味での「魔術」と呼び得る。

 

 結果として、政治的勧誘の分析の多くは原始魔術の残存物ということになるが、それ本来の、現実にあらわれている側面から、つまり修辞学の観点から扱われるべきである。修辞学を「言葉の魔術」とすると問題を逆戻りさせることになる。もともと、儀式や呪文によって自然の過程に影響を与えようとする象徴の魔術的使用は、言語に固有の働きを適合しない場所に誤って移そうとしたものである。<人間の行動を引き起こす>ために言葉を発するという現実主義的な使用法が、<事物の行動を引き起こす>(事物とは本来、純粋に言語的な動機づけの体制とは異質なものである)ために言葉を発する魔術的用法になった。この<誤った>、<派生的な>魔術的用法を<本来的>とするなら、言語に<固有の>使用法(例えば政治的説得)を未開の前科学的魔術の単なる痕跡として扱うよう求められることになる。

 

 確かに、修辞家は取引に策略を使う。しかしそれは単なる「悪しき科学」ではない。「技芸」である。それを過度に科学的に扱うことは(単純に現代テクノロジー弁証法的に対立すると扱うことは)、我々の世界を「新原始時代」にあるように見せるに違いない。少なくとも、金銭に基づいた社会的努力の合理化が無視できないこの社会状況には、原始魔術が強く行き渡っていることは明記すべきである。そして、現代の政治家の修辞は、金銭が合理化を助けている極端な労働と社会身分の分裂において、高度に多様化された生活様式の頂点で社会的同一化を確立しようとするだろう。