ブラッドリー『仮象と実在』 142

[自然には非有機的な部分があるだろうか。]

 

 逸脱から戻ることにしよう。我々は自然が拡がりをもつものと考え、単なる自然は実在ではないことを見た。次に付随する質問に移ることにし、その第一は非有機的と呼ばれる世界についてである。事実、非有機的な自然は存在するのだろうか。さて、もしそれがある領域や存在の分割を意味し、全体としてあるひとつの経験に寄与し、参入することでないなら、問題はすでに解決していると言えよう。絶対についての感覚を完全にすることに失敗し、直截それに仕えることができないような配列は存在することができない。また、絶対のなかではあらゆるものがともにあるので、限定された有機物との本質的な関係からは離れているという意味での非有機的ななにかは存在できない。こうした切断は長いあいだ責められてきたが、また別の意味で我々は非有機的なものを探求せねばならない。

 

 有機体によって理解されているのは、性質と関係との多かれ少なかれ永続的な配列であって、別種の感覚に落ちこむとともに、直接的に仕えるのである。我々が言っているのは現象の集合体で、それと特殊な感じられたものが結びつく様子は次の章で論じよう。すくなくとも、どれだけ不正確だとしても、こうした意味で私はこの言葉を使うことにする。それゆえ、ここでの問題はそうした限定された配列を形づくることができない要素が自然には存在するかということになろう。問題は理解できるが、形而上学にとって、なにも重要性はないように思える。

 

 第一に、この質問は答えることができないと思われる。肯定にしろ否定にしろなんら正統な根拠を見いだすことはない。絶対のなかで、身体が限定的な魂に結びつくように、結びつくのに失敗するような諸性質は存在できない、ということの正当な理由を知ることはない。また、他方では、そうした諸性質が存在すると想定することの特殊な原因も見あたらない。抽象的な観点は離れ、この問題を具体的な事実と見なすとき、私の見る限り、我々は先に進むことはできない。可能なことと可能でないことが有機体のどの部分を演じるのか、我々はほとんど知ることはない。多かれ少なかれ、我々の身体の同一性は、我々が他の身体や魂について結論づけることの基礎になっている。この推論には正確さはないので(第二十一章)、別の言葉で言えば、より大きな適用範囲を得ている。そして、この根拠から、満足な否定的結果を生みだすことはほとんど不可能に思える。外面的な形のある種の類似、行動におけるある程度の相似性は、我々が心的な生を論じるときに立脚するものである。しかし、他方において、そうした徴候を発見できないことは、現実的な否認の十分に正統な根拠ではない。(1)たしかに、我々の知識を越えた、諸性質の奇妙な配列があり、未知の人格的結合の条件に奉仕している。外面的な形にある程度の相違があり、あらわれ方に逸脱があるなら、ある有機体の現前を知覚することに失敗することになろう。しかしそれでは、それは常に存在しないのだろうか。あるいは、我々がある有機体の本性を見いだすなら、我々はそれらすべてを組みだしたと仮定できるのだろうか。我々は本質を突きとめ、それ以外にはどんな変移も可能ではないのだろうか。こうした主張は擁護できないように思われる。知られている限り、眼で見られる自然のあらゆる断片は、我々の身体ではない有機体の部分としてある。そして、自然のいかに多くの部分が我々の観点からは隠れているかをさらに考えてみると、我々はたしかに独我論に赴くことはより少なくなるだろう。不可視な有機的統一に結びついているだろうし、まったく同じ要素が数多くの有機体にも居場所をもち、働いているかもしれないからである。しかし、未知な部分を空想で埋めてみたところで進歩はない。反省すると、我々は可能なものを制限し固定するような条件を持たないことは明らかである。(2)諸配置というのは、明らかに我々自身とはまったく異なっており、まったく異なったようにあらわれ、感情の限りのある諸中心と直接に結びつくことが可能である。そして、我々の結論は、我々の知らない関係をのぞけば、自然の大部分は非有機的とは言えない、ということでなければならない。もちろん、なんらかの実際的な目的がある場合、ことは根本的に変わってくる。もちろん、我々は無知のもと行動する申し分のない権利をもっている。しばしば見えないものを存在しないものとして扱うことができるだけではなく、そうしなければならない。しかし、形而上学においては、そうした姿勢は正当化され得ない(3)。一方において、自然のある部分は有機体であることの確かな知識を我々はもっている。しかし、他方において、非有機的ななにかが存在するかしないか、我々は判断する手段をもっていない。それゆえ、我々の疑問に答えを出すことは不可能である。

 

 

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 しかし、この無力はなんら重要な問題とは思えない。というのも、すでに見たように、有限な有機体とは現象的なあらわれ以外のなにものでもなく、その分断も統合も絶対においては超越される。そして、非有機体は、もし存在するとしても、より非実在的なものであろうことを確かである。いずれにしろ、有機体との関係に単に縛られることはなく、それらとともに、単一ですべてを吸収する経験のうちに包含されることになろう。それは多様性がまったく失われず、一なるものが有機的なもの以上のなにかである全体のなかでのひとつの特徴、一要素となろう。これで、更なる探求に進もう。

*1:

(1) この関連においてフェヒナーの力強い主張を連想するのは自然である。

(2)多様な物質的体系の可能性を考慮し、それぞれの体系の内部で物体が互いに混じり合っているなら、我々は独我論から遠ざかることになろう。

(3)主要な諸原則については第二十七章を参照。