ケネス・バーク『動機の修辞学』 21

.. 修辞の現実主義的働き

 

 進むにつれて勇気を得た我々は、修辞学に人類学を導入するよう提案するよりは、人類学者が自らの領域に修辞学の要素があることを認めたのだとさえ主張できるようになった。つまり、こうした議論から最近の原始魔術についての研究を見ると、むしろ、「悪しき科学」としての魔術と「原始修辞」としての魔術とを区別したくなるかもしれない。すると、人類学が明らかに魔術に修辞的<働き>を認めていることがわかる。魔術の修辞的側面を悪しき科学として無視するどころか、人類学者は修辞に、社会の凝集力を促すことで諸文化の生存の大きな助けとなるような実用性を認めている。(マリノフスキーがこの方向で多くの仕事をしており、クルックホーンのエッセイも呪術について同じような観察をしている。)しかし、「魔術」を「修辞」とをつきあわせてみると、現代の修辞学を単に「原始魔術の残存物」とするよりは、魔術の社会化された側面を見て、それを「原始的な修辞」として扱う方が正しいと言えるだろう。

 

 <というのも、修辞自体は人間社会の過去のいかなる条件に基づくものでのない。言語そのものの本質的働きに根づいており、その働きは現実主義的で、常に新たに生まれ変わる。言語は存在間に協調関係をつくりだすために象徴として使用され、それは象徴の本質に相応している。>修辞についての考察は遠くまで及び、様々な分野の自律性を侵犯するが、言語を説得のために使うことに修辞の本質的な動機が存在する。言語を説得のために使用することは「悪しき科学」や「魔術」から派生したものではない。逆に、「魔術」がそこからの不完全な派生物であり、「言葉による魔術」とは言語的な動機づけに影響されない存在に言語的応答を生みだそうとする試みである。しかしながら、一度この修正を導入しさえすれば、言語の本質を見ることができる。表面上研究対象に修辞的要素があらわれていないような場合にも、研究者が新たな修辞学にいかに大きな価値をおいているか見て取ることができる。言語の<説得する>側面、<誰かに宛てる>という言語の働き、現実あるいは想念上の、外側あるいは内面の聴衆への直接あるいは間接的な訴えかけに関係する限り、人類学者、民俗学者、個人そして社会心理学者などの発言は修辞との関わりで位置づけることができる。

 

 我々は一つの語について押し問答しているだけなのだろうか。ある意味ではそうである。「修辞学」という語を体系的にどこまで広げられるか示すために、その論理的根拠を提示している。この点で、我々は一つの語にしつこくこだわっている。この語の<働き>を徹底的に調べてみなければならないからである。しかし、「魔術」や「呪術」といった人類学者の用語に修辞的要素が潜んでいるといっても、人類学者の用語を我々の用語に入れ替えるよう要求しているわけではない。そうした意味での押し問答をしているわけでないことは確かである。「修辞」という語は、「魔術」、「呪術」、「社会化」、「コミュニケーション」等々の代わりになるものではない。しかし、修辞という語はそれらの語によって扱われる多様な領域の<働き>を指し示す。我々が求めているのは、この<働き>をあるがままに認めてもらうことだけである。言語の働きは、本性上、ことわざと同じような<リアリズム>であり、厳密な「科学的リアリズム」に見いだされるリアリズムとは遠くかけ離れているだろう。というのも、本質的に<行為>のリアリズムだからである。道徳、説得——それに結びついた行為は「科学的リアリズム」の命題がそうであるように「真」や「偽」であることはない。科学的リアリズムの観点から、原始魔術の「命題」がいかに「間違っている」にしても、それは社会的凝集に多様な形で寄与する同一化の様々なあり方を含む魔術の<修辞的な>要素とは関係がない(その利益が、共同体全体のものとなるか、その利害が共同体の重荷であるような特殊な集団のものとなるか、あるいは、我々の社会のある種の企業のように、その権利と義務が共同体の利益や負担と曖昧な関係にある特殊な集団のものとなるか、様々だが)。

 

 魔術の働きの「実用に基づいた認可」は厳密な真偽の命題の領野外にある。それ自体修辞に頼る協議の領域である。「正反対の証明」がなされる技芸に属する事柄なのである。

 

 「正反対の証明」で意味されることを示してみよう。例えば、サウジアラビアで、アメリカの商業が「攻撃的かつ拡張的に」開拓されることを、読者に好意的に受け入れさせようと明白に意図している記事を読む。我々の商業と資本投下の政策が、封建制が残る文化に導入されたときの驚くべき変化と、財政と科学技術の原理がその変化を成し遂げるすさまじい早さについて感じ入ったように語られている。この「事実」の明らかな修辞的意図、ねじ曲がった<不合理な推論>で突然に思い出されるのはクルックホーンのエッセイの一節で、そこにはいまなら「呪術の修辞」と呼べるものが含まれている。

 

ナヴァホ族のように、一方では競争的で資本主義的、他方ではいまだ家族中心の社会では、経済の可動性を遅らせる効果をもつイデオロギーはどんなものでも必ず採用される。ナヴァホ社会のもっとも基本的な緊張の一つは、家族主義の要求と資本の蓄積によるヨーロッパ風の競争との両立不可能性から生じている。

 

 

結論は、「社会の生存」は、「呪術のような、資本の急速な蓄積を妨害するもの」の助けを借りてなされるということである(「イデオロギー」としての呪術は、新たな財産を悪の魔術によるとすることでこの目的に寄与する)。そこで、もし文化変動の最高度の速度、特殊な経済状況の下での部族的動機づけと個人主義的動機づけの最適な比率について語り始めるなら、非常に重要なことを語ってはいるが、修辞に深く関わっていることも見いだすことになろう。というのも、多すぎるか少なすぎるか、あるいは、早すぎるか遅すぎるかの討議ほど修辞的なものはないからである。こうした論議において、修辞家たちは永久に「正反対の証明」をし続ける。

 

 我々は現在どこにいるのだろうか。修辞の主要な二つの点について考えてきた。<同一化>に使用されること、<誰かに宛てられる>という性質である。同一化は分裂を含むので、修辞は我々を社会化と党派争いに巻き込むことがわかった。同一化は、道徳と争いの双方に関わる両義的な動機である財産や属性によって得られるので、そこでは平和と闘争の境界は揺れ動いている。究極的な闘争は戦争や殺人であるから、そうした形象は再同一化(「変容」や「再生」)をあらわす用語となりうる。同一化と分裂の間を揺れ動く境界を考えるときに、我々が常に行き着いたのは、公然たる非難もあれば、実際の分裂を分裂を否認することであらわす逃げ口上のように明らかにされない場合もあるが、言葉についての論争である。

 

 同一化と分裂で揺れ動く境界は、永久に修辞を悪意と嘘の可能性に直面させ続ける。語り手や彼の目的に好都合な同一化が聴衆にも好ましいかのように見せようとするなら、周到な狡猾さで「意識を高める」可能性があるからである。かくして、回り道を通って、我々は第一、第二、第三の聞き手に<宛てられる>という修辞の本性に出会った。社会化自体、最も広い意味においては、誰かに宛てられることに見いだされる。スケープゴートの選択に特徴的なように、同一化と分離とは同時に働くので、修辞は呪術、魔術、魔法、倫理的誘導などに関連した問題をもたらす。こうした問題を論じる過程で、我々は別の用語、説得に行き当たった。修辞学とは説得の技芸、あるいは、いかなる状況においても利用できる説得の方法を研究するものである。かくして、我々は、回り道を通ってではあるが、アリストテレスが修辞についての論考を始めた地点に着いた。

 

 そこで、我々の目的を幾分変えよう。いままでは、我々の見解では、伝統的には「修辞学」と呼ばれなかったものも修辞学に入ることを示そうとしてきた。これからは、既にある修辞学についての様々な見方を考えることにしよう。そして、それらを我々の議論と同一の基本用語から「産み出す」ように努めてみよう。

 

 「同一化」と「説得」の関係について。語り手は様式上の同一化を用いて聴衆を説得することを心にとめておいた方がいい。説得行為は、聴衆が語り手の利害と同一化するようしむけるのが目的である。語り手は、自分と聴衆との信頼を確立するために利害の同一化を持ちかける。であるから、説得、同一化(「一体化」)、コミュニケーション(誰かに「宛てられる」という修辞の本性)を切り離すことは考えられない。しかし、ある種の例では、どれかの要素が特定の分析を進めるのに最適だということはあるかもしれない。

 

 最後に。象徴を使う存在によって、他の行動を引き出すために象徴が使われることは(まさしく誰かに宛てられた説得である)、本質的に、魔術ではなく<現実主義的>である。しかしながら、一体化が同等でない身分同士で象徴的に確立されるような場合には、同一化は<観念的な>領野にまで広がっていく。後に、@秩序@について述べるときに見ることになるが、この観念的要素からあらゆる人間関係を特徴づけるある種の魔術や神秘が生じるのである。