ブラッドリー『仮象と実在』 143

[それらはすべて有限な魂との関係であろうか。273-280]

 

 我々は、経験を越えてはなにものも存在できず、それゆえ、自然のどの部分も絶対の完全性の外部には出られないことを見てきた。しかし、経験の必然性についての疑問は、少々異なった意味でも提示される。有限な主体が経験されないような自然が存在するだろうか。絶対において、物理的な諸性質の縁は、いわば、有限な知覚者を通りぬけていかないだろうか。もちろん、もしそうなら、我々はそれを知覚できない。しかし、問題は、それにも関わらず、我々はそうした縁が存在することを想定できるのか、あるいは想定せねばならないのかどうかである。(a)有限な知覚者に対して存在しないような、物理的な事実、事物は可能であろうか。そして、(b)次に、それを実在と捉える十分な根拠が我々にはあるのだろうか。

 

 (a)第一に、この可能性を擁護するためには、いくつかのことを言わねばならない。「有限な魂と関係することが」と我々は言われる、「自然が我々にあらわれる条件であることは認めるが、そのことから、この条件が絶対必要だということにはならない。我々がある条件のもとで出会う諸性質が、そうした条件がなくとも存在しうると主張するのはおそらくは行き過ぎだろう。しかし、他方において、知覚可能と言えるたぐいのなんらかの性質は(いわば)個別な魂の上で発見される、あるいは段々知られる必要はないだろう。それらの性質は、最終的にはそれ以外のものと同じく、そうしたものとして、絶対のなかに吸収されることは確かであろう。しかし、それらは(いわば)この終結に向けた道を自分自身で見つけることができるし、有限な知覚者の仲介など必要としないだろう。」しかし、この擁護は、私には不十分であるように思える。我々は、ある仕方で、魂とは離れた知覚可能の性質を考えることができるが、疑問は、そうした仕方が本当に正当化されるかということにある。問題は、我々が感覚の有限な中心から抽象するとき、知覚可能な性質からあらゆる意味を取り去れないのかどうかにある。そしてまた、絶対において、有限な経験に含まれない物質が存在しうることを認めるなら、その物質を自然の一部とし、物理的と呼ぶことまで進めるのだろうか。この二つの問題は、極めて重大で明瞭なものとしてあらわれる。

 

 有限な諸中心における経験ではない、経験の縁で、我々が見いだすのは不可能とは呼べないものかもしれない(第二十七章)。しかし、そうした事柄を自然のなかに位置づけることはまた別のことのように思える。というのも、自然は経験におけるある区分のなかで構成され維持されるからである。それは本質において、区別と対立の産物である。そしてこの産物を有限な諸中心の外部に存在しているととることは擁護できないように思われる。そうした外部にある自然とは、おそらく無ではないだろうが、自然ではないと主張しなければならない。もしそれが事実なら、物理的とは呼ぶべきではない事実である。

 

 しかし、他方において、こうした探求はすべて、重要ではなくほとんど無駄に思える。というのも、有限な諸魂によって知覚されないにもかかわらず、あらゆる自然はそうした魂の内容とともに経験に入ってくるだろうからである。それゆえ、ある特殊な焦点によって捉えられる、またそれを通らないようなものは、最終的にその意味を失うことになろう。かくして、たとえ我々が有限な諸中心の知覚には含まれないような事実を認めるにしても、結局、我々の絶対についての見解は変わらないだろう。そして、そうした事実は、既に見たように、正確には物理的ではありえない。

 

 (b)有限な精神によって捉えられない自然の部分は、ある意味で、かろうじて可能であることを見てきた。しかし、他方において、それを仮定することが必要だとも言えるかもしれない。別の結論にいたる道にもそうした難点が存在し、我々に選択の余地はないように思える。知覚するどれほどの存在によって捉えられようと、自然はあまりに広範囲にわたるとも言える。そして再び、自然はある部分知覚され得ないものとなる。私が生きている間の自分自身の脳はこのあきらかな例である。また、我々は顕微鏡でしか知りえないような対象、触れもせず見られもしないが科学によって保証されている物体について考えることができる。そして、ずっと存在してきた山々は、短いあいだしか生きない死せる者の諸感覚以上のものであるに違いないし、実際、それらは有機的な生が発達する以前から存在していた。こうした反論に直面すると、我々は自分の主張を通すことはできないと言える。自然の存在には有限な諸魂が必要だという主張は維持できないように思える。それゆえ、そうした知覚する諸中心によって捉えられない物理的世界が、なんとかして仮定されねばならない。

 

 この反論は最初は重く思えるが、批評として成りたたないことを示そうと思う。必要な区別をすることから始めよう。もちろん、物理的世界は私とは独立に存在し、偶然的な私の諸感覚に依存しているものではない。私がたまたまそれを知覚しようがしまいが、山は存在する。この真理は確実である。しかし、他方において、その意味は曖昧で、二つのまったく異なる意味に取れる。お望みならそれらの意味をカテゴリカル、仮定的とそれぞれ呼べよう。山は知覚されているとき、常に現実に存在すると主張することもできる。あるいは、それは常に感覚されうる知覚とは別のなにかであることが意味されているのかもしれない。そして、知覚されているときにはいつでも、同じような性格を発現するのである。それ自体として存在する山と観察者に対して発現する山を混同することは、おそらくは我々のもっとも一般的な精神状態だろう。しかし、そうした不明瞭はいまおこなっている探求には致命的なものとなろう。

 

 (i.)まずはじめに、我々がカテゴリカルな意味と呼ぶものに適用させて反論を取り上げよう。自然はそれが知覚されている通り、それ自体で存在しなければならない。そして、もしそうなら、自然は部分的には有限な精神を越えたものでなければならない――つまり、我々の見解に反対する議論になる。しかし、この議論は我々の単なる無知に基づいていることは確かである。というのも、我々とは異なった自然の全体にわたって拡がり、同化しているような有機体が十分存在することもできるからである。こうした有機体に可能な知覚の様態については、いかなる限度も設けずにいられる。しかし、もしそうなら、なぜあらゆる自然が常に有限な知覚と関連するべきでないのか、なんら根拠は存在しない。自然のあらゆる部分は、たまたま我々がそれを知覚するときに、我々に対して存在するように、なんらかの精神によっていま現実に存在しているかもしれない。自分の脳や顕微鏡でしか見られないような対象は我々を躊躇させる原因となる必要はない。というのも、いつでも感覚に明瞭であるときにはなんらかの能力がそこにあることは否定できないからである。我々が知る限り、ずっとありつづける山は常に目に見えている。今日において知覚されているように、過去においても知覚されてきただろう。もし我々が存在や知覚するものの力に限度を設けることができないなら、反論は知識に関する誤った仮定に基づいていることになる。(1)

 

 

*1

 

 

 (ii.)しかし、こうした回答はおそらくは言いすぎであるかもしれない。それは避けられ得ず、法外なものとなっていくのを感じる。自然の全体が常に知覚され、我々が知覚する限り常にそこにあるというのは可能である。しかし、我々は我々のすべての身をこの仮定に預ける必要はない。我々の結論はもう少し少ないもので事足りる。というのも、感覚によって知覚される諸事物の向こうには思考の世界がひろがっているからである。自然はなにものかが現前し、それについて考えられもするだけでなく、くわえて、ただ考えられているだけの物質を含むものである。それゆえ、自然は我々の知性の範囲によってのみ制限される。それがどんなやり方においてさえ、有限な魂によって把持される物理的宇宙ということになろう。

 

 この境界の外部には自然は存在しない。あらゆる知覚物の消え去った前有機的な時間や物理的世界という考えをとることもできる。しかし、我々がもっている知識からは、ひかくてきな意味合いでさえ、この帰結を普遍的なものだととることはできない。我々が知っている有機体に関しては意味をもちうるが、そこから離れるにしたがって明らかに薄弱になる。ふたたび、そうした真理は、真であるところでさえ、単なる現象であり得る。というのも、いずれにしろ絶対には歴史も進展もないからである(第三十六章)。端的に、知覚者のない自然とは単なる科学の構築物であり、非常に部分的な実在しか有していない。(1)また、物理における知覚されないものにしても同じである。単に現象でしかないことを証明するようなあきらかな矛盾から離れても、その本性が思考との関係においてしか存在しないことは明らかである。というのも、なんらかの有限者に知覚されないなら、それらは、そうしたものとしてまったく知覚されないからである。そしてそれらのもつ実在とは、感覚しうるものではなく、単なる抽象物である。

 

*2

 

 ここまでの我々の結論はこうなろう。自然は有限者によって現実に知覚されるものを越えて拡がるかもしれないが、有限者の思考の限界を超えないことは確かである。絶対にはおそらく有限者の経験には含まれないような余白が存在するだろうが(第二十七章)、このあり得る余白は正確に物理的なものとは受け取れない。自然に含まれることで、有限者の精神との関係において性格づけられるからである。そして、単なる思考としての自然の存在は、同時にある難点を生みだす。というのも、実在する物理的世界は、感覚しうるものでなければならないのは明らかだからである。感覚しうるものとは異なって存在するとは、仮定的に存在する以外にない。もしそうなら、自然、少なくともそのある部分は、現実には自然ではなく、単にある条件のもとにおいてそうなるのだということになる。実際、我々が考えるのはなにか別な、もうひとつの事実であり、我々が考えるもの自体は物理的な実在ではないように思える。かくして、我々の見方によれば、この限りにおいて自然は事実ではないように思える。そして、最終的には、その物理的な存在のある部分を否定するよう我々は追い込まれることになろう。

 

 我々に迫るこの結論は、ある意味において避けることができないものであることを私は認める。思考の対象となり、いかなる精神によっても知覚されないとされる自然は、厳密な意味においては、自然ではない。(1)だが、こうした帰結は、正しく解釈されれば、我々になんの混乱ももたらすことはない。条件つきの存在の意味を論じたときに(第二十四章)、よりよくそれが理解されよう。しかしながら、ここではいまある難点に対処してみよう。端的には次のようになる。一方において、自然は現実的なものであらねばならず、もしそうなら、感覚しうるものでなければならない。しかし、他方において、部分的には知性によって捉えられるものでしかないように思える。これが問題であり、解決は、我々にとって、知性でしか捉えられないものは、より絶対的なものに近しいのではないかということになる。どのようにかは我々にはわからないが、我々が考えるものが知覚されることがある。そこでは直観的な経験において、諸観念と諸事実とが同時にまたそれ自体において、融合し再吸収される。

 

*3

 

 単に我々が考えることが実在なのではなく、というのも、考えることにおいては、「そこにあること」と「何であるか」に分裂があるからである。しかし、それでもなお、あらゆる思考は我々に現実的な内容を与える。そして、この内容の現前とは、いかなる可能な知覚とも同じくらい厳然たる事実である。思考の対象となる自然は、この限りにおいて存在し、ある量の否定しがたい性格をもっている。それゆえ、絶対において、あらゆる内容は存在と再び混合し、思考の対象となる自然は再び直観的な形式を獲得する。それ自体と宇宙の他の側面が一緒になり、豊かなか全体に対して固有の貢献をなすことになろう。それは我々が考えるところのものではなく、我々の経験において知覚に続いて思考が行われるときのものではない。それは、ある種の条件において、我々の諸感覚にあらわれる物理的事実となるなにものかである。しかし、絶対において、それは、知られてはいないとしても、有限な精神によって経験される現実の一要素であるから――また、感覚によって知覚されるようになるなら、それを物理的事実と判断することは正当なのであるから――それゆえ、既にそれは仮定的ではあるが、独立した事実である。この意味において、自然は個人の空想から独立したものではなく、個々の精神に関係するもの以外に内容はない。その他なんらつけ加えることなしに、諸中心には、絶対における調和のある経験を供するにたる十分な物質が存在することを想定できる。この未知の統一のなかにはいかなる要素も存在せず、その成員たちの断片的な生によって取って代ることはできない。有限な経験の外側には、自然な世界も、その他どんな世界も存在しない(1)。

 

*4

 

 しかし、我々は一般常識と衝突することになると反論されるかもしれない。一般常識に従えば、自然の全体は存在する。有限な存在がそれを捉えようが捉えまいが、それは現にあるものである。他方、我々の見方では、物理的世界のある部分は、そのようなものとしては存在しない。この反論は十分根拠のあるものだが、まず第一に、一般常識はほとんど整合性がとれないということがある。たとえば、甘い味と苦い味を、そのようなものとして感覚の外側の世界に位置づけることにはおそらくためらいを覚えるだろう。しかし、暗闇のなかにも色があり、耳がなくとも音があると信じる者だけがこの論拠に立つことができる。まったくなにも見えないのに赤い花をもち、誰もその匂いを楽しめないのに、楽しめる者がいるなら、彼は我々の議論に反対し、自らの議論を述べることが許されるだろう。しかし私は、形而上学的に言えば、彼の見解は注目する価値がないことが判明するだろうとあえて考える。重大な理論というものはなんでも、ある点において、一般常識と衝突する。そうした側面から見るならば、我々の見解はその方面では他の議論よりも優れている。我々にとって、自然の大部分は知覚される通りにあることは確かである。二次性質は物理的世界の現実的なある部分であり、我々が砂糖とするものが存在し、それ自体、現実に甘く愛すべきものとしてある。のみならず、後に見るであろう(第二十六章)自然の美でさえももっとも堅固な一次性質と同じくらい我々にとって確かなものである。見られたり感じられたりする、あるいはいかなる仕方であれ経験されたり楽しまれたりする物理的なあらゆるものは、我々の見解に従えば、自然の領域に存在するものである。我々が経験する通り、それは自然のなかにある。思考の対象でしかないもの、いかなる生物も知覚しないと仮定されるものだけが、そうしたものである限り、事実ではない。かくして、一般常識と衝突することは認めるが、私は一般常識の狭さと程度の低さを強調することになろう。

*1:

(1)「無知がつくりだす不毛さは、

    それを越でることを無駄にする」

*2:(1)283ページ以降も参照。

*3:(1)もちろん、これは、自然が現実的な物理的事実に限定される限りにおいてである。

*4:(1)宇宙の内容のいかなる部分も有限な諸中心に含まれないかどうかという問題は、第二十七章で論じている。