ケネス・バーク『動機の修辞学』 23

.. 同一化

 

 ソクラテスを引用して、『弁論術』のなかでアリストテレスは、「アテナイ人のなかでアテナイ人を褒め称えるのは困難なことではない」と言っている。彼は、聴衆が一般的に美徳だと考えているものの目録をつくる。公正である、勇気がある、自制心がある、冷静あるいは堂々としている(気高いmegaloprepeia)、心が広い、気前がいい、優しい、賢明である、知恵がある。そして彼は言う。称賛する、あるいは非難する目的で、修辞家はこうした諸性質によく似た性質を対象のものと見なすだろう。例えば、用心深い男に対する嫌悪を引き起こすには、彼を冷血で、腹黒い者として示せばいい。薄のろを愛すべき者とするには、性格の良さを強調する。けんかっ早い者は率直、横柄な者は冷静で威厳がある、向こう見ずな者は勇敢、浪費家は気前がいいと。また、こうした判定を下すときには聴衆のことを考えるべきである。というのも、スパルタ人に話すときに、アテナイ人を褒め称えることは困難だからである。

 

 このことは部分的には第一巻にある。第三巻で再び全体として取り上げられるが、そこでは語り手の友情や同情への訴えかけが議論されている。そしてこう続く。演説で誰かを称賛することになったときは、「聞き手がその称賛を個人的にか、一族や職業を通じてか、とにかく共有していると信じさせなければならない」と。アテナイ人といるときにアテナイ人を褒め称えることは容易だが、スパルタ人と一緒のときにはそうではない。

 

 多分もっとも単純な説得というものがここにある。聞き手の言葉を話すことができ、身振り、声の調子、身分、イメージ、姿勢、考えで両者が<同一化した>ときにその人間を説得することになる。甘言による説得は説得一般の特殊な例に過ぎない。しかし、その意味を体系的に拡大し、甘言の背後に同一化や一体化一般の条件を見て取るなら、甘言は十分我々の範例になりうる。聴衆の「一般的意見」に服従することで一体化の「しるし」を提示するわけである。アリストテレスキケロに従えば、雄弁家は聴衆の善意を受けるにふさわしい性格の適切な「しるし」を示そうとするだろう。実際には、修辞家は聴衆の意見をある一点で変えなければならない。しかし、他の部分で聴衆に譲る限りにおいて、それは成功する。いくつかの意見は、他の意見を動かすための支点として必要となる。(確固たる意見は共有している方が好ましく、「他のことではみんな一緒です」といって聴衆と同一化することは、本当ならより効果的である。)

 

 アリストテレスの『弁論術』で、「ありきたりの文句」や「一般的話題」(ラテン語の入門書ではloci communesに該当する)と言われているものは、この意味での「一般的意見」を概観するものである。アリストテレスは目的、行動、事物、条件、精神状態、個人的性格、などを再検討し、人々が、見込みがあるあるいは手に負えない、良いあるいは悪い、有用なあるいは危険な、好ましいあるいは嫌悪するなどと考えるものを調べた。そうした一般的意見、あるいは前提(多分、今日では「姿勢」や「価値」の題目で扱われるようなものだろう)は説得の有用な手段としてあげられる。しかし、我々の目的に重要なのは、こうした類型は説得の原則からでたものであり、人々が一般的に説得的だと、説得的な効果をもつ方法だと考えるものを概観した結果に過ぎないことである。

 

 かくして、アリストテレスは、人々にある政策を勧めたり、反対させたりしたいときに頼るべき様々な一般的意見の一覧表をつくる。また、人々の一般的意見のなかで、正当あるいは不正な行動へ導くとされる動機の種類。人々が尊敬、または嫌う個人の特徴(語り手が自分を好ましく、敵を好ましくないと見せるために利用する一般的意見)。怒り、友好、恐れ、思いやり、羞恥、憤り、羨望、対抗意識、慈悲心、等々をかき立てるために利用できる一般的意見はなにか。一般的意見に基づいた論証を彼は「省略三段論法」と呼び、それは修辞学で三段論法にあたる。例示による議論(修辞学で帰納にあたる)も同様に、多様な一般的意見の一覧にまとめられている。(ついでながら、「倫理的相対性」について語る者は、アリストテレスの一般化にあらわされている「場」や論題の「永続性」に印象づけられるに違いない。<観念>としては、それらはいまもかつてと同じだけ関心を引いているように思われるが、その現実性を最大限に伝えようとするなら、語り手は、しばしば、ギリシャ人が選んだのとは異なった<イメージ>でそれを個別化しなければならないだろう。)

 

 アリストテレスが考慮しているもう一つの「論題」は、戦術的な操作、経験則によって発明、展開、変容された表現、論理の曲芸やうわべだけのソフィスト的議論によって得られる。こうしたことにも一般的意見は体現されていようが、その「論題」としての特徴は、形式的、手順上の要素にまで抽象することによって弁別される。アリストテレスがこうした「場」に含めるのは次のようなことである。敵の言葉を敵自身に返し、議論を正反対のもので変える(「戦争がそれをしたのなら、平和によって修復すればいい」)。他には次のようなものがある。敵が新たな状況で政策を掲げたときに、かつては別の立場だったことを思い起こさせる(「かつてはそうしたがったが、いまでは違うわけだ」)。定義を有利に使う(ソクラテスは以前<ダイモン>について述べたことを、自分が無神論者ではないことの証拠とする)。主張をいくつかに分ける(「罪となる三つの動機がある。二つは不可能であり、糾弾者でさえ三つ目のものは認めない」)。結果の意図的な選択(ある原因はよい結果にも悪い結果にもなり得るので、自分の立場に都合のいい方を選べる)。誇張(非難されている者は、その非難を大げさに言い立てることによって非難の力を弱めることができる)。社会的しるしを使う(評判が悪いから、あの男が泥棒だ、と論じる)、等々である。これらの戦術のうちで、彼が特に注目しているのは、公的動機と私的動機との転換を行うことである。公的には、公正と美を称揚する。しかし、私的には、利益になるものだけを好む。弁論家は自分の目的にあった立場を利用することできる。これは、現代の修辞家たちが揺れ動く「理想論」と「物質主義」の範例となるものであり、彼らは「理想論的」動機を自分の党派に結びつけ、「物質主義的」動機を敵に結びつける。あるいは、効果のないことや実際的でないことを「理想論」だと言って非難できる。

 

 自分の望みを聴衆の一般的意見に翻訳することが同一化の一例なのは明らかだが、最後にあげた純粋に形式的な修辞学的発明は遠く離れた場所に我々を連れて行く。しかしながら、弁舌の緊急性が増せばますほど、形式的工夫はますます豊富になり力を増してくるのは事実であるように思える。であるから、それは単なる「飾り」ではなく<実用的な>なものに違いない。ここでは「同一化」の過程は次のようになると思われる。

 

 ロンギヌスは、聴衆が、詩人や語り手の主張を単に受け入れるのではなく、自身創造的に参加していると感じたときの高揚感のことを言っている。そのような場合、聴衆は、共同して主張すると感じるので高揚されると言えないだろうか。

 

 少なくとも、純粋に形式的なパターンの多くが、共同作業を思わせる姿勢を容易に呼び覚ますことは知られている。例えば、対立の生じる過程を想像してみよう(<我々は><これを>するが、<彼ら>は<あれを>する。<我々はここに>とどまるが、<彼らは向こうに>行く。<我々は上を>見上げるが、<彼らは下を>見下ろす、等々)。一度こうした形式のやり方が理解されると、内容にかかわらず参加が呼びかけられる。形式的にいえば、あなたは対立物の連続のなかで揺れ動いていることになり、そもそもそのような対立の形での提案に同意しないにしてもそうなのである。憤りを感じるような対立者の提案があったとする——だが、それを繰り返し述べることで形式に則った展開を「助け」、対立の図式に身をゆだねることもある。もちろん、もともとのその提案への抵抗が激しければ激しいほど、形式との「共同作業」によって「自分の身をゆだねる」程度は弱くなるだろう。しかし、決断がまだつかないとき、同意の余地のある形式をつくることは、同意と等しいことがある。こうした形式に引きつけられるのは、党派としてばかりではなく、そこにある「普遍的な」魅力のためでもある。同意の姿勢は、形式にたまたま結びついた事柄に向けられることもあり得る。

 

 同じように強力な形式、漸層法(gradatio)について考えてみよう。ローブ版デメトリオスの『文体について』の編集者は、その例を『お気に召すまま』からあげているが、そこでは比喩のなかに比喩の名がはめ込まれている。

 

  君の兄さんとぼくの妹とは、出会ったかとおもうと見つめた、見つめたかとおもうと恋した、恋したかとおもうと、溜息した、溜息したかとおもうと、おたがいにその訳をたずね合った。訳が分ったかとおもうと、解決しようとした。そういった<段取り>で、結婚への<階段>をつくってしまった。[阿部知二訳、一部変更117]

 

この形式については特に曖昧な点はない。しかし、1948年の「ベルリン危機」のニュースで大量に出まわった<漸層法>の政治的意味を思い起こしておこう。「ベルリンを支配する者はドイツを支配する、ドイツを支配する者はヨーロッパを支配する、ヨーロッパを支配する者は世界を支配するのだ。」一つの提議として、それは正しいかもしれないし、正しくないかもしれない。正しいとしても、民衆がまったく帝国主義的でなかったら、世界を支配したいなどと思わないだろう。しかし、提議として疑問があるにもかかわらず、三段階の二段階目までくると、更に進むことが運命づけられているように感じる——形式的な面で同意してしまうと、発言の完成、完遂を自発的に願い、実現に協力することになろう。病的なナショナリズムがあり、形式への同意があれば、提議を教義として同意することになる。

 

 デメトリオスは、アエスキネスからの例も引いている。「自らに反し要求せよ、法に反して要求せよ、民主制全体に反して要求するのだ。」(デメトリオスが論じなかった要素、第三段階の<ふくれあがるような>効果も含め、できる限り言葉をそのままの形にしようとしたので下手な翻訳になってしまった。原文では、三段階はそれぞれ、六、七、十のシラブルで成り立っている。)この効果を示すために、デメトリオスは同じ観念を累積的な形式なしで、「自らと法と民主制に反して要求するのだ」という風に言い換えている。この言い方では、彼が論じる三つの形式的要素が欠けている。各節の始めで同じ語を繰り返すこと(首句反復)、各節の最後を同じ音にすること(同音節反復)、接続詞の不在(接続詞省略)である。ここには、人が賛同できる著しい形式的特徴がない。(累積的形式の論争的でない例としては、フローベルの手紙の一節を思い起こし引用することで満足しよう。「彼らはしばらくは徒歩で、しばらくは馬で、しばらくは象の背中で進んだ。」ここでは、視覚的形象の次々の変化が音節延長の効果を補強している。)

 

 多くの「修辞法」や「比喩」がクインティリアヌスの『弁論術教程』の八、九巻で論じられているが、(内容を無視した)純粋な形式的同意への誘いかけが、ある場合においては何よりも大きい力を持つとされている。そのすべてを詳細に分析することはここでの目的ではない。原則を確立し、どうしてこの、あるいはあの修辞的形式で表現される発言が、まず、聞き手を「普遍的な」魅力の場である形式に参加するように誘い、次に、同じ陣営に巻き込もうとする「同一化」を含むのかを充分示すことが必要である。