ブラッドリー『仮象と実在』 145

[自然の同一性。281-283]

 

 先に進む前に、ひとつの反論を扱っておこう。「あなたの見解によると」と言われるかもしれない、「結局のところ、現実にはまったく自然は存在しないことになる。というのも、自然はひとつの実質のある存在であり、そのイメージは多数あるが、本体は単一であるからである。しかし、あなたの理論によると、我々は数多くの似たような反映物をもつことになる。そしてそれらはお互い同士一致するかもしれないが、そこに真の実在する事物があらわれることはない。そうした現象は自然とは考えられないだろう」と。しかし、この反論は無思慮な偏見と呼ばねばならぬものに依拠している。それは多様な魂の内容が同一であることは不可能であるという観念に基づいている。感覚と思考の異なった諸中心が分かれていることが、こうした多様な中心のあいだの同一性を排除すると仮定されている。しかし、後によりくわしく見ることになるが(第二十三章)、この仮定は根拠がない。それは同一性一般に対する盲目的な偏見の一部で、批判の前に消散してしまう。性質において同一であるものは、その限りにおいて常に一なるものでなければならない。そして、時間や空間、あるいはいくつかの魂において分かれたとしても、その統一性が失われるわけではない。もちろん、多様性は同一性に差異を生むが、そうした差異や変更がないならば、同一性とは何物でもない。しかし、他方において、同一性を多様性によって破壊されるものととるなら、あらゆる思考と存在は同様に不可能となる。もし実行されれば、これは宇宙を破壊する教義である。確かに、最終的には、一と他とがどのように結びつくか知ることは我々の力を越えている。しかし、絶対においては、いかにしてか、問題は解決することを我々は確信している。

 

 このあきらかな自然の分配は見かけのものでしかない。一方において、異なった諸魂の集合があり、他方において絶対における統合がある。幾つかの中心の内容が一緒になるところでは、もちろん、自然のあらわれはひとつとなるだろう。もし別々の魂の側面から問題を考えるなら、我々はなんの難点も見いだすことはできない。各知覚者にとって自然とは、主に、知覚者にとってそう見えるものであり、主として、特殊な知覚者にかかわることはない。もしそうなら、なにかそれ以上のものが求められることは理解しがたい(1)。もちろん、なんらかの魂が特殊な感覚をもっている限り、それが見いだす諸性質は経験のなかでない限り存在することはないだろう。しかし、私はなぜそうであるべきなのかについてはわからない。そして、不確かな範囲ではあるが、いかなる魂にも感覚的に知覚されることのない自然があることを私は認める。そうした自然の部分は、私を越えて存在し、私が知覚するようなものとして存在するのではない。その限りにおいて、一般常識が満足しえないことは明らかである。しかし、もしこれが正当な反論だとしても、誰が言えば効力のあるものなのか私にはわからない(2)。もしさらに続けて、自然は我々に働きかけるよう行動し、そうした力の側面が我々の理論では無視されていると言われるなら、詳細に答える必要はない。というのも、究極的な実在がなんらかの力を求めるなら、第一巻でその主張については我々は既に処理している。そして、こうしたことで意味されるすべてが諸魂におけるある種の帰結を伴った自然のある種の行動であるなら、現象の共存と継起以外にはなにもないことになる。それは出来事が生じる秩序や道筋であり、我々の自然の見方においては、この配列と不整合なものはなにも見いださない。こうした秩序だったあらわれという事実から、有限な経験に含まれないなにものかの存在を推論することはできない(3)。

 

 

*1

 

*1:

(1)自然がそれ自体において、より以上のものであるなら、我々にとってもそうであり得るだろうか。そして、反論者がより以上のものを求めるのは、我々のためを思ってだろうか、それとも自然のことを思ってだろうか。こうした点について明瞭さが望ましい。

(2)バークレーの後継者が、まさしく知覚される通りの(あるいは感じられる?)自然の全体は現実には神のなかに存在すると主張することは可能である。しかし、これはそれ自体は形而上学的な見方ではない。単に形而上学を欠いた欺瞞的な試みに過ぎない。神性のなかにこうした非合理的なものが集積され、それが(部分的に?)有限な諸中心のなかで反復され、全体のこうした諸側面(あるいは諸部分?)が関係づけられる――これは問題を解決するのではなく、単に棚上げするための努力であるのは確かである。

(3)私はいかにして自然が秩序としてあらわれるかを説明できないことは認めるが(第二十三、二十六章)、その他の見解がよりよいものであることは否定する。自然における諸目的という問題は後に考慮することになろう。