ケネス・バーク『動機の修辞学』 24

.. 修辞的動機の他の形態

 

 修辞の普遍性を主張している箇所において(『弁論家について』の第一巻)、キケロは正しい行動と正しい言葉が一つと考えられていた幾分神話的な段階から始めている(アキレスの訓練を書いたホメロスが引用される)。次に彼が遺憾をもって記しているのは、行動と言葉の鋭い乖離であって、最終的にはソフィストが修辞を語の単なる装飾にまで制限してしまった。それに続くのが、修辞学と哲学が分離することによって、修辞学の威厳が更に失墜することである。(キケロはこの分離の原因としてソクラテスを責めている。かくして、皮肉なことに、文化的混交と科学の特殊化の増大を体系的に割り当てようと努力をしていたソクラテスの試みは、まさしくそうした試みが生ぜしめ、統御しようとしていた状況のために責められる。)キケロが言うには、修辞学が分離してしまったのは、「知恵」と「雄弁」が区別されたからで、その区別が、修辞学を言語的な甘言に還元してしまうソフィストの行為を正当化したのだろう。

 

 後に、哲学と知恵は、修辞学の迎合とは<異なった形式>をもつ「弁証法」のもとに分類されることになった(この区別は、ストア派では弁証法と修辞学との単純な対立になり、弁証法が選らばれ、修辞学が排除された)。あるいは、弁証法は修辞学の基本と考えられ、単に言語的ではなく事物の、普遍的な理法の領域にあって、目的の選択において修辞学者を導くのだとされる(アウグスティヌスとの関連を示しておこう)。キケロ自身は、修辞学者は論理にも、世界についての知識にも熟練していなければならず、あらゆる分野にわたる才能は雄弁に<本来備わっている>ものだと強調した。

 

 また(概観を続けると)、「正反対の事柄を証明する」技芸としての修辞が存在する。感情や先入見に訴えかける修辞があり、競争的な目的の強い「好戦的な」ものもある。

 

 最後の点について、イソクラテスは、言葉の戦いにおける不正に応じるように、「優位」(pleonexia)という考えを精神化する見方をとった。好機を捉えて優位に立とうとすることや自分の利益を得ようとすることが頻繁に修辞の目的となることを認めながら、修辞家の「真の優位」をその<道徳的>卓越に位置づけたのである。もちろん、彼は、通常の人間関係で優位に立とうとあがくときに使われるものではない理想的な修辞を考えている。しかし、彼はここで非常に重要な語を我々のリストに加える。修辞の特徴には、ある種の<優位を得る>ために使用されることがある。

 

 実際、アリストテレスがあげ、説得にも諫止にも利用される「幸福」の源は、十九世紀の功利主義者の「利害」の説、あるいはラ・ロシュフーコー箴言の213で「人々にたたえられる勇敢さ」としてあげている名誉愛とその帰結(不名誉や他人をねたむことへの恐れ)、金銭への欲望(その帰結である快適で好ましい生活)のように(l'amour de la gloire,la crainte de la honte,le dessein de faire fortune,le desir de rendre notre vie commode et agreable,et l'envie d'abaisser les autres)、「優位」という一般的題目にまとめることができる。

 

 この「優位」という語は修辞学の理論に有用であり、心理学や社会学の様々な分野が経験的証拠(修辞的含意のある用語であって、例えば、マルクス主義の用語の修辞的含意と対照的なのは容易に見て取ることができる)を見いだしたと主張している「欲動」や「衝動」のすべてをあらかじめそこに包含することができる。確かに、人間の努力はある種の「優位」を目的とするというのは、どんな教義でもまず認めることだが、その優位が一般的なのか個別的なのか、理想主義的に考えられているのか、物質主義的に考えられているのか、あるいはシニカルに考えられているのかは議論の余地がある。優位は個人的なものでも、党派的なものでも、普遍的なものでさえありうる。人間がある種の優位を求めることは理に適っており、倫理的でさえある——それ故、人間の動機をいくつかの原始的な欲望と抵抗と獲得方法とに還元する「科学的」語法の修辞的含意に見られるように(ラ・ロシュフーコーが『箴言』の自己愛についての箇所で、人間の行動は「自然の光、恩寵なき理性cell de la lumiere naturelle et de la raison sans grace」に照らされるまでは、因習的なキリスト教流の動機から推論されていた、と言うように、この種の動機づけの体制は「キリスト教後」に到達される)、優位という語を個人的な策略や誇張といった修辞的企てに制限する必要はない。

 

 明確にしておくべきだろう。我々は、修辞的な動機を検証して、現存するすべてのあるいはほとんどの要素をリストにしようとしているわけではない。むしろ、古代のテキストにおいて既に修辞と結びついていた広範囲な意味を考えている。いくつかの意味は、その特殊な用法において重要なものだろう。それらの意味はしばしば互いに首尾一貫せず、対立するにもかかわらず、「エデン」においては「説得」という一つの語であり、それが「バビロン」の分裂を迎え、「説得」自体が今度は他との一体化や<同一化>に巻き込まれるようになったと我々は信じている。説得を発生原理と見なすことから<付帯的な>考察も導き出される。説得という行為はそれが起こる場面や、誰に向けられるかに影響を受ける。同じ修辞的行為でも、状況や聴衆の態度で影響力が変わりうる。それ故、修辞家が一般的意見を利用することには、純粋な言語的構造としての修辞的表現には外的な非言語的要素の分析が含まれる。

 

 かくして、アリストテレスの論拠についての考察が、現代のジャーナリズムの状況に適用されるなら、移ろいやすい陳腐さを利用する風刺漫画のようなものを、ある種の<時事的な論拠>として目録に載せる必要があるだろう。移ろいやすさというのは、その表現が、違った状況の人間には全く異質だということではなく、ある特別な状況に生活している人間にとって<より説得力がある>ということを意味している。かくして、失業を主題としたとりわけ優れた漫画であっても(フランクリン・ルーズベルト政権の「雇用対策」で、「無駄な仕事」を次々に打ち出す連邦政府の「見かけ倒し」を風刺する場合のように)、雇用が最大限の時期に発表されるのは困難だろうし、そうしたときには労働力一般の不足や自国内の求人の不足の問題がより時期に見合った話題であると言える(編集者が失業を描いた優れた漫画よりも労働力不足を描いたつまらないものの方が好ましいと考える場合もそうである)。

 

 <観念>のレベルにまで還元すれば、時事漫画もアリストテレスが集めた普遍的な平凡さと同じものを利用することが見いだされるだろう。しかし、時局の転換があるために、ある状況においてはある<イメージ>がより説得的なものとなる。クウィンティリアヌスも、平凡さがより限定されることについて触れていて、一般的な話題はある個人に結びつくことで特殊になるだけでなく、「姦通者を盲に、博打打ちを貧しく、放蕩者を老いを」という場合のように、他の個別化のしるしと一緒になることで特殊になるのだと記している。そして、キケロは、雄弁家の<記憶>の働きについて論じるときに、論題とイメージ(simulacra)との体系的に連合に関するいまでは失われた同時代の作品に言及している。かくして、「時事的な話題」についての発言は、伝統的は修辞の動機を拡大することではなく、古典的な理論を現代の出版による特殊な文化状況に適用するだけのことである。後に、その二つの主要な側面について考えるつもりなので、ここは足早に触れておくにとどめよう(そこでは、ジャーナリズムの即時性が確立した新たな「現実」のレベルについて考え、『ニューヨーカー』の漫画を例にとって訴えかけの一時的要素と永続的要素との関係を研究するだろう)。

 

 ところで、時事的な話題についての考察は、スローガン、常套句、民族意識に蓄えられた形象などの盛衰を調査する社会学的作業が、再び修辞的な動機の領域に進入していることに気づかせる。実際、修辞の材料、聴衆についての知識の基となり、聴衆に訴えかけようとするときに実用的な<教育的修辞学rhetorica docens>の側面をもたないなら、社会学的作業に実用性はなく、使用のためではなく集められ、分類され、観察されること自体が目的のものとして、文学的、あるいは哲学的「評価」によって、純粋で「偏りのない」場において判断されねばならないことになる。確かに、それが額面通りであるのならば異議はない。しかし、通常そこには、有用性についての関心なしに育てられた「純粋」科学には、後になって実用的な価値が見いだされるという事実が隠されている。なんであれ利用される<可能性がある>という事実は、新たな熱意を生み、それが現在どうあるかではなく、どうなる可能性があるのかの調査が正当化される。自然には「神々(諸力)が満ちている」ので、体系的に調べてみれば、ある特殊な事柄の守護神が新たに見いだされるものである。それ故、事実をなんの脈絡もなく集める「現地調査」主義には、収集にとってくだらなすぎる事実などない。その姿勢そのものは、大いに推奨される。最上の科学的謙虚さである。しかし、<本質的な価値のないもの>に<実用的な価値がある>のだと仮定するようなもっともらしい説を許すべきではない。

 

 時事的な話題によって訴えかけがより狭く、より強くなることと同じ価値があり、現代の状況により特徴的なもう一つの側面に、主に郵便によってなされる類の請願がある。アリストテレスキケロは両者とも聴衆の相違を強調した。実際、若い聴衆と年のいった聴衆に訴えるときの話題を区別するアリストテレスのやり方は、劇作家が「情熱的な若者」と臆病な老人とを対照的に描き分けるときに役立てられる。アリストテレスがいかに強く科学に引かれていたにしても、その傾向は常に高度な劇学的文脈によって修正された。彼の修辞学は、その洞察において完全に劇作家のものである。

 

 しかし、アリストテレスは、一般的意見の分類において、聴衆の多様性を体系的な徹底さで論じはしなかった。そして、アリストテレスキケロも、聴衆を<与えられた>ものとしか考えていない。しかしながら、郵便という媒体と、現代生活の極端な多様性が結びつくと、異なった可能性が生まれる。営利的な修辞家が一般的な説得の手段ではなく、彼の商品に関心を持ち、買うことができそうな、特殊な「所得グループ」に訴える手段を探す場合に似た、聴衆の組織的な「開拓」の試みである。最良の聴衆になってくれそうなグループにあった話題やイメージを用いることで訴えかけの直接性や強さが得られるなら、それだけで行動に駆り立てようとするだろう(先を見越した買い手がある商品より別の商品に気を引かれ、品質の良い商品を買い過ごしてしまった場合、それを「受動的」ではなく「能動的」と言えるにしても、彼の行為は、十分に「合理的で」、「自由」だとは、少なくとも十全の哲学的な意味において、行為と言えるだけの合理性と自由には欠けている)。いずれにせよ、ここでも聴衆が考慮されている。当然、本質的に新たな状況を覆うまで領域が広がってはいるが、古典的な伝統で検証しても修辞学に収まるものであろう。

 

 まとめると、同一化の概念を通じた修辞の<広がり>の他にも、伝統的な修辞のモチーフには次のようなものがあった。説得、一般的意見の利用(「時事的」話題はその一変種である)、誰かに宛てられるものだという性格、文学の使用(それ自身において、それ自身を目的にした言語表現を超えた、行動を誘い出すような応用芸術)、言語的詐術(言葉の戦いの道具としての修辞)、「好戦性」一般、「甘美な」言葉の使用(それ自身が目的の流暢な弁舌や愛想の良さ)、形式的装置、正反対の事柄を証明する技芸(弁証法の「対応物」)。我々はまた、聴衆の「開拓」が新たなコミュニケーションの場を広げると示唆したが、そこに伝統的な修辞学の関心事からはずれるものは<本質的には>なにもない。非言語的な状況要素が与えうる影響については、我々の知る限りもっとも手際のいい原則が最近、ブロニスラス・マリノウスキーによって立てられた。原始的言語についての論文である(オグデンとリチャーズの『意味の意味』の追補として発表された)。彼の「状況の文脈」という考えは、新修辞学に様々な仕方で適用可能であり、「官僚制の修辞」に分類される、半言語的、半組織的な戦略を考えるときなどは特にそうだと我々は信じている。