ブラッドリー『仮象と実在』 146

[物理学の立場。]

 

 さて、我々が幾度が触れてきた問題を考えることにしよう。実在には、単なる物理的自然がありえないことを我々は見てきた。物理学の世界は独立したものではなく、全体的経験の一要素に過ぎない。そして、有限な諸魂を離れては、この物理世界は厳密な意味においては存在しない。しかし、もしそうなら、自然科学はなにによって成りたっているのか問わねばならないことになる。そこでは、魂のないそれ自体の力によって成立する事物としての自然が扱われている。そして、我々は明らかに批評を越えたなにものかとの衝突を余儀なくされる。しかし、この衝突は錯覚であり、誤解を通じてのみ存在する。というのも、自然科学の対象は究極的な真理を確かめることではまったくなく、その範囲は現象の外側に及ぶことはない。それとともに働く諸観念は、実在の真の性格を述べようと意図することはない。それゆえ、そうした観念を形而上学的批判に従わせること、あるいは、別の観点から、それを形而上学に対立させることは、その目的や趣旨において間違っている。物理科学の諸原則が、それらが主張してもいない絶対的な真理をもっているかどうかは問題ではない。問題は、この科学によって採用される抽象物が、適正で有用であるかどうかである。そして、この疑問に関しては、なんの疑いもありえないことは確かである。現象の共存や継起を理解するために、自然科学はそれらの諸条件を知的に構築する。物質、運動、力はある出来事の生起を理解するために使われる作業観念でしかない。空間的な現象がつながり合い生じる仕方を見いだし、体系づける――それだけがこうした諸概念が目的とするところである。そして、こうした諸観念が自己矛盾していると主張する形而上学者は見当違いであり不公正である。最終的にそれらが真ではないと反対することはその企図を見誤っている。

 

 かくして、物質が自律した、連続的で同一な事物として扱われているとき、形而上学は関わりをもたない。というのも、現象に属するものの諸法則を研究するためには、現象それ自体を見なければならないからである。諸魂のなかにある従属的な要素としての自然の意味合いは、否定はされないまでも、事実上、また実際的な理由によって無視される。そして、有機体が存在する以前のときのことを聞く場合には、それは、第一に、我々が知っている種類の有機体を意味するべきである。また、宇宙の一部分に関するものとして言われるべきである。あるいは、いずれにしても、それは究極的な実在に関する現実的な歴史の言明ではなく、他とは異なるある事実について考えるための便宜的な方法である。かくして、形而上学と自然科学は互いに自分の分野を守り、衝突は不可能である。誤解によらない限り、どちらも相手に対する防御など必要ない。

 

 しかし、どちらの側にも誤解がしばしば起きているのは誰も否定できないことだと思う。しばしば、単なる自然に関する科学が、その限界を忘れ、目的を取り違えて、第一原理について語ろうとする。超越的になり、独断的で批判的でない形而上学を提示する。かくして、宇宙全体の歴史において、物質が精神の現前にあらわれると主張することは、絶対の内部での発達と継起を位置づけることであり(第二十六章)、全体の外側にある実在をその存在における単なる要素とすることである。そして、こうした教義は自然科学でないばかりでなく、どこかになんらかの価値があると想定しても、少なくとも科学としてみれば価値がない。というのも、力、物質、運動が不整合ではあるが有用な作業観念以上のものであるとすると――こうした仮定に基づいた場合、それらはよりよく働くようになるだろうか。結局のところ、それらだけを用いて空間的な出来事を解釈し、それらが絶対的な真理であるとするなら、それらはあなたになにももたらすことはない。この絶対的な真理は、どんな場合にせよ、現象の生起に関する諸条件の体系として適用せざるをえない。この目的において、適用するものは、同じ働きをするなら、同じものだということになる。そして、私が思うに、自らの立場を維持できない自然科学の失敗は(失敗する限りにおいてだが)理解するに困難ではない。それにはひとつ以上の原因があると思える。第一に、絶対的真理はあらゆる特殊科学において追求されねばならないという漠然とした考えがある。そうした科学においては、我々が用いることのできるものだけでは足りず、すべてを求めることになるということが見てとれないことがある。しかし、不運なことに、それですべてではない。というのも、形而上学自体、物理科学との相互干渉により、自己防御において考え行為し、そうすることに導かれて形而上学となるよう誘導されるからである。そして、形而上学におけるこの干渉がもっとも有害な誤解の結果であり原因だと私は認め、残念に感じる。なんら実際上の結論をもたらさない構築の努力ばかりでなく、合理的な働きを悪用させるような科学に対する攻撃も存在する。というのも、自然科学への反論として形而上学が義務とするところは限られているからである。この科学が現象とそれらの生起の諸法則の領域にとどまっている限り、形而上学は一言たりとも批判する権利はない。関連するものが――単なる現象のあり方――意識的であれ無意識であれ、それ以上のものとなったときに批判がはじまる。現在、科学で用いられ、その根拠において形而上学による訂正が求められ、そこに留まることが有益となるような教義があることは私も認める。しかし、その能力がないのと余裕がないこと、なによりも、おそらくは誤解されることを恐れているので、触れずに通過する方がいいと思われる。自然については我々の全般的な探求にとってより重要な問題がほかにある。