ブラッドリー『仮象と実在』 147

 

[自然の統一性。]

 

 拡がりのある世界はひとつのものなのだろうか、もしそうなら、どのような意味でか。第十八章で我々は時間の統一性を論じたが、そこで達した結論を思い起しておく必要がある。我々はすべての時間は絶対のなかで統一するが、この統一自体が時間的なものでなければならないのかという問いに対する答えは否定的なものだった。我々は多くの時間系列が時間において関連していないことを見いだした。それらはひとつの系列、継起全体の諸部分を形づくってはいない。反対に、その相互関係や統一は時間の外側にあった。そして、拡がりの場合も、似た考察が似た結果を生む。物理世界は物理的統一をもつという意味ではひとつではない。空間において関係せず、結果的にお互いに排除しあわず、はねつけ合いもしない物質世界が幾つも存在することは可能である。

 

 最初は、あらゆる拡がりはひとつの空間の部分であるかと思われる。というのも、あらゆる空間、またあらゆる物質的対象は空間的に関係しているように思われるからである。そして、もちろん、そうした相互に関係するものはひとつの拡がりの全体の成員であるだろう。しかし、この信念は、反省すると即座に消滅しはじめる。(たとえば)私の夢のなかでの自然は拡がりをもっているが、空間的に私の物理世界とひとつのものではない。そして、想像や思考のなかで私は物質的で拡がりをもつ無数の存在をもつが、それらは互いに、あるいは私が知覚する世界となんら空間的な関係をもたない。そして、それらの物体や配置は我々が現実に見いだす確かな感覚を伴っていないので、非現実だと答えたところで無駄である。というのも、それらがすべて存在することは極めて明瞭だからである。それらが拡がりをもっていないとしても、少なくとも、それがあるかのようにあらわれ、それを示すことが可能だからである。その拡がりや物質性は、端的に言って、明白な事実であるが、他方において、そのいくつかの配列は空間のなかで内的に関連していない。そして、もちろん、絶対のなかではそれらは統一性をもつので、統一は物質的ではないと結論しなければならない。一緒になることによってその拡がりという性質は変容する。互いに独立した多様な空間的体系が存在し、それらはひとつの非空間的体系に吸収されるときに、それ自体を越えて変化する。かくして、統一に関しては、空間と時間は似たような性質をもつ(210-214頁)。

 

 一般的な目的において私が「真の」自然と呼ぶのは、私の身体と関わる限りにおいての拡がりのある世界である。身体と空間的な体系を形づくるものは「真の」拡がりをもっている。しかし、「私の身体」は曖昧なもので、というのは、私の想像では、身体は私が知覚する物体となんら空間的な関係をもっていないからである。また知覚も錯覚であり得て、夢のなかの私の身体は私の「真の」身体と同じではなく、またそれはいかなる空間的配列のなかに入るわけでもないのである。最終的に、私の「真の」身体と言うことで意味されているのは次のようなことであるように思える。目覚めているときに私に入ってくるものに応じて、身体をもとに私は空間を構築する。これとともにある単一の空間的諸関係の体系を形づくるこの拡がりを、私は真実と見なす(1)。この相互関係のひとつの体系の外側にある拡がりはなんであっても私は「想像的なもの」と見なす。そして、ひとつの単なる従属的な見解としては、これで十分であろう。しかし、この根拠により、絶対における他のあらゆる空間的な体系の経験を否定することはまったく別のことである。というのも、我々は「想像的な」拡がりを事実として手にしており、それはそのまま残り、我々を戸惑わす原因となっているからである。そして、反省すると、多様な物理的配置は空間的な相互関係のようななにかなしでも存在できることは明らかに見てとれる。それらは全体のなかでは統一をもつだろうが、その固有な物質体系の外側ではそれぞれ空間においてなんの関係ももたない。それゆえ、自然は、空間的統一をもつという意味で正確に単一の世界と呼ぶことはできない。

 

(1)私の「真の」身体やその「真の」世界の過去と未来に関しては、それらが現在と空間的な関係をもつと想定されるのか、またいかなる意味でそう言われるのか言うのは困難である。我々がこの問題について通常考えるのは、単なる不整合のかたまりだと言える。本文の考察から発展するもうひとつの興味深い点は、どのようにして我々は目覚めている状態を区別するかということである。しかし、この問題についての答えは、ここでは求められていないと思える。私はまた病気やその他の異常な状態についても言及しない。しかし、それらのここでの意味は明らかである。