ブラッドリー『仮象と実在』 148

[固性。288-290]

 

 かくして、我々は各々空間的な諸関係において独立した、数多くの物理的体系をもつことができる。そして、我々はこの点からもうひとつの関心に進むことができる。そうした多様な物質の諸世界は、ある程度互いに働きかけ、影響しあうことができる。しかし、厳密に言えば、それらはどの点においても内的に貫入しあうことはできない。それらの内的行動は、いかに親密なものであっても、貫入しているとは言えない。それ自体において、またその影響において、より密接な統一が含まれるにしてもである。それらの諸空間は常に離れたままであり、空間的な接触は不可能であろう。しかし、それぞれの世界の内部では、貫入について言えば、事情は異なってこよう。ある事物における別のものの貫入は、一般的なものとして存在する。このことがなんの難点ももたらさないことを簡潔に示してみよう。

 

 絶対的な空虚のなかの空間に位置づけられる個体によって成りたっているという自然の観念は、ギリシャ形而上学から受けつがれたものだと思われる。そしてその多くの部分において、どれだけ全体にわたってこの見方が批判にさらされているのか我々はほとんど理解することもできない。私は物理学や物理学によって採用される諸原則のことを語っているのではなく、文学的な市場において形而上学と呼ばれうるものについて語っている。そして、そこで共有されている考え、ある拡がりのある事物は別の事物を貫入することはできないというのは、主として偏見によっている。というのは、物質が想像であろうと、可能性としてであろうと、物質のなかに入ることができるかどうかは、まったく物質というものの意味にかかっているからである。貫入は空間的な相違の廃棄を意味しており、それゆえ、空間的相違を失うことによってそれ自体破壊されてしまだろうものとして物質を定義することもできる。言ってみれば、もしいくつかの物質が拡がりにおいて同一であり、それを離れては個別的な相違がまったくないなら――そのとき、それらの諸片が貫入できないことは明らかである。しかしそうでない場合なら、貫入できるかもしれない。これは私には明瞭に思われ、手短に説明してみよう。

 

 第一に、ひとつの空間の二つの部分が互いに貫入し合えないことは明らかである。というのも、それらの二つの部分が拡がりの他になんらかの性質をもたねばならないにしても(第三章)、そうしたそれだけの諸性質では十分ではないからである。たとえある変化が両方の諸性質を強いてひとつの単一の拡がりに属させると想定したとしても、結局のところ、二つの拡がりある事物をひとつにするわけではない。というのも、ひとつの事物は消え去るのであるから、二つの拡がりの事物をもつわけではないからである。それゆえ、両者の存在を含む貫入とは意味を欠いた単なる言葉になる。しかし、もし我々がある要素の二つの断片を空間よりも具体的なものと考えるなら、事情は変わる。第一に、それらを分離し、区別させるようなその他の諸性質が拡がりに依存していると仮定するなら――その限りにおいて、それらの事物は互いに貫入しあうことはできない。というのも、(仮定によって)ひとつの事物が異なった存在であることを失うので、以前のように、ひとつの空間に二つの事物をもつことはないからである。しかしいま、すべての問題は、物質にとってこの仮定が真であるかどうか、つまり、自然において諸性質が実際に拡がりと同一視されるかどうかにある。私自身は、そうだと考える根拠を見いだせない。もしひとつの拡がりのなかの二つの部分が、その別々の空間がなくなったときにも、個別化するに十分な相違があり、いまだに二つの事物であることを保っているなら――それら二つの事物がともに貫入しあえることは明らかである。というのも、貫入とは空間における同一性にもかかわらず、異なった存在が生き残ることだからである。かくして、すべての問題は事実上、こうした生き残りが可能であるかどうかに関わる。別の言葉で言えば、その拡がりがひとつであるにもかかわらず、二つの事物がそのまま二つであることは可能ではないのだろうか。

 

 我々は(この可能性が排除されるまでは)物理世界の諸部分が本質的に相互排除するものだと見なす権利はない。我々は矛盾なしに他の諸物体に抵抗しない諸物体を考えることができる。我々はそれらを相対的な真空として、自由に貫入しあえるものとして、ある条件のもとで互いに存在するものととることができる。そして、もしこう考えてもなんの実質的な進歩はないとしても、少なくとも絶対的空虚という不条理、醜聞とさえ言えるものからは逃れることになる(1)。

 

*1

*1:(1)繰り返しになるが、こう述べたところで、私は物理学で使用されている諸観念に反対しようと、また、なんらかの存在と無とのあいだを調停しようとするあきらかな試みに反対しようとしているわけではない。現象に関わる科学では、相対的な空虚程度しか求められていないのは明らかである。それ以上のものは、もし実際に存在すると想定されても、使いこなせないことだろう。いずれにせよ、形而上学にとって絶対的空虚とはナンセンスである。空虚な時間同様、単なる自己矛盾である。というのも、ある種の内的な相違を仮定しておいて、同時にそれを否定するからである。