一言一話 53

 

 

構造主義的活動 シミュラークル

 およそ構造主義的活動といわれるもののねらいは、それが反省的思考のものであれ詩的なものであれ、ある<<オブジェ>>を再構成するところにある。ただし、そのオブジェの働き具合のなかにある諸規則(<<機能>>)が、その再構成の中であからさまになるようなやり方でそれをやるのである。構造とはだから、本当のところはオブジェの一つの<疑似構成物>であるが、ただし方向の決った、ある立場をもった疑似構成物である。模倣されたオブジェは自然なオブジェの中では見えなかった何か、もしこう言った方がよければ了解不能であった何かを出現されているわけだから。構造的な人間は現実界をつかみとり、それを分解し、そして再び構成する。こういったことは一見したところ、ほんの僅かなことだ(というわけで、構造主義の仕事は<<無意味な、興味をひかない、無益なものだ、云々>>と或る人びとには言われることになる)。けれども観点を変えれば、このほんの僅かなことが決定的なことなのである。というのはこの二つのオブジェの間で、というか構造主義的活動の二つの時間の間で、<新しく何ものかが>生み出されるのだが、ここにいう新しいものこそ、一般性をもった了解可能なものに他ならないからだ。いうならば疑似構成物とは、「オブジェ」プラス「知力」である。そしてこの添加には人間的価値がそなわる。この添加こそ人間そのものであり、人間の歴史であり、人間の状況であり、人間の自由であり、自然が人間の精神に対立させる抵抗そのものであるという点で。

 

オブジェがフェティッシュになる仕組みもここではあらわされている。