ブラッドリー『仮象と実在』 150

[その整合性。]

 

 次に整合性と呼ばれている問題に移ろう。この問題はほぼ一瞬で捨て去ることができよう。というのも、ある部分、それには形而上学に必要なものはないからであり、またある部分、後の章で扱わねばならないからである。しかし、整合性がどう理解されるにせよ、主要な部分で我々は懐疑的たらざるを得ず、よそよそしい問題に過ぎない。物質と運動が、どれかひとつの世界であろうがすべての世界であろうが、常に同一であり続けることをどのように示せばいいのか私にはわからない。また、世界が感覚的な性質において同一であり続けることをどのように我々が知るのは私には理解できない。一方において、絶対がその同一性を保持している限り、また、他方においては、現象の領域が秩序を保っている限り、我々のすべての要請は満足させられる。世界のこの秩序は、それぞれの自然において、同じ諸性格が保持される必要はない。まず第一に、あらゆる変化がひとつの実在の同一性に従属することが意味されている。そして、それ自体は、いくつもの諸世界のほとんど無限な変化と整合していると思われる。第二に、秩序は有限な諸主体の経験の可能性を含むものでなければならない。それゆえ、秩序は安定を欠くことによりそれぞれの世界を理解不可能なものとするようなあらゆる変化を排除する。しかし、この安定性は、最終的には、時折生じる感覚のなかに存在する限られた量の同一性しか必要としないように思える。第三に、現象の連なりにおいては、因果関係の法則は壊れずにあるに違いない。しかしまた、それはほとんどなにももたらさない。というのも、因果関係の法則は、存在において我々は常に同じ原因と結果をもたないということを主張しはしない。一方が与えられると、不可避的に他方をもたねばならないということを言い張るだけである。かくして、自然の整合性は、感覚の世界が一様であるという仮定を保証することはできない。保証されるのは、ある面が部分的に非存在で、部分的に仮定的だということである。(1)

 

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*1:(1)これらの点の更なる考察は第二十三章を参照のこと。